日本で安楽死が解禁されたら? 漫画「終末パートナー」と緩和ケア医が示唆する「同調圧力」「後悔」のリアル
現代の日本で「安楽死」が解禁された場合、社会にどのような影響を及ぼすのでしょうか。評論家が考察します。

7月10日に上下巻で同時発売された漫画『終末パートナー』(北村みなみ著、KADOKAWA)が大きな話題となっています。安楽死を合法的に実施できる制度が導入され、不治の病により耐え難い苦痛を抱えている人であれば、安楽死を申請できるようになった近未来の日本が舞台になっています。
本作は、SFという形式を取りながらも、安楽死の解禁が個人の心理や社会構造、さらには人間関係のあり方に及ぼす影響を生々しく可視化した点において、社会的思考実験のような物語として評価することができます。
安楽死に対する正確な知識が広まっていない
安楽死をめぐる議論は、「自己決定の権利か、生命の尊厳か」という抽象的な倫理規範の対立に陥りがちですが、本作では、その制度が「日常」として定着した世界(制度化から20年近くが経過した設定)で何が起こるのか、そして私たち自身にも問われる「老いと病に対する偏見や先入観」を赤裸々に描き出しています。
まず、安楽死という言葉ですが、SNSを見ても、重大な疾患の有無に関係なく「死にたい人が楽に死ねる制度」というざっくりとした理解であることが多く、安楽死に対する正確な知識が広まっていない現状にあります。
本作では、「厳正な審査」を前提に、「(1)治る見込みのない疾患」「(2)耐え難い肉体的・精神的苦痛」「(3)明確な意思表示」の3つの条件を満たす必要があるとしています。これは、「余命条件を設けない制度」であり、実際に欧州やカナダなどを中心に実際に運用されている主要なモデルの一つです。
安楽死の具体的な方法は、医師が準備した致死性の薬を本人が飲み込む形になっているため、「自殺ほう助」となります。第三者が直接致死薬を投与・注入する「積極的安楽死」とは、最終的な実行者の違いから厳密に区別されています。
「自粛的な選択」を強いる同調圧力
さて、本作のとりわけ注目すべきポイントは2つあります。「自分らしさ」よりも「自粛的な選択」を強いる同調圧力の存在と、「自己決定のゆらぎ」のリアルです。
難病と診断されたフリーライターの女性のエピソードでは、ブログで難病と婚約を発表後、友人から彼氏が闘病の「犠牲」になるのではと言われ、またブログがバズったことで、コメント欄が「彼氏さんをケアラーにしないで」「この病気になったら死んだ方が楽だよな」といった心ない言葉に覆い尽くされます。
もともと彼氏への負担を気にしていた彼女は、これらの言葉に背中を押されて、「人に迷惑かけて、性格も悪くて……でも安楽死すれば」「私も自立した社会の一員として認めてもらえる?」という安直な考えに流されてしまいます。
ここで表面化しているのは、「社会の目」や「空気」、それを内面化した家族などの心情に忖度(そんたく)して、「自分らしさ」を貫くことよりも、「自粛的な選択」を余儀なくされる同調圧力の存在です。
西欧における安楽死議論の根底には、徹底した「個人の自己決定権」の思想があります。「自分の命の所有権は自分にある」という強力な個人主義が社会の基盤にあるため、制度の運用にあたっても個人の意思と周囲の圧力を切り離して評価する倫理的枠組みが機能しやすいのです。
これに対し、日本社会における個人の存在は、常に家族や世間といった関係性の中で定義されています。ここで決定的なリスクとなるのが、「人に迷惑をかけてはならない」という強固に内面化された規範と同調圧力の結合です。
この文化的土壌がある中で制度だけを導入すれば、「自ら選択した」という形式をとりながらも、その実態は周囲への気兼ねや罪悪感に促された「自粛的な選択」になりかねません。先述の漫画の女性フリーライターは、まさにそのような状態に陥ってしまいました。
つまり、本来は個人の尊厳を守るための「権利」として設計されたはずの制度であっても、同調圧力が強く作用している環境下では、「死ぬ権利」(自由)から「死んで周囲の負担を減らすべき義務」(事実上の強制)へと容易にすり替わってしまう恐れがあるのです。
結局のところ、自分一人で自己決定を完結させにくい社会においては、「他者に依存しながら生きること」をどこまで肯定できるかが問われることになります。個人の意思決定を孤立させず、同調圧力から守る社会的な仕組みが構築されない限り、安楽死制度の導入は弱者を追い詰める結果になりかねません。
人間の意思は流動的
次に、意思決定をめぐる問題提起です。主人公やその他の登場人物のエピソードにも描かれていますが、安楽死の申請を行った後も、考えが変わったり、迷いが生じたりすることがあります。「死の自己決定」と言うとまるで意思が揺るがないように聞こえるかもしれませんが、当然人間のすることですから翻意は珍しいことではありません。
近代的な法制度や生命倫理の枠組みは、人間を「理性的で、一貫した確固たる意思(自己決定)を持つ存在」として定義しがちです。ですが、実際の現場では、「人の意思は、不確かで流動的であり、環境や他者との関係性によって絶えず揺れ動くもの」という生身の現実がむき出しになります。
「死の自己決定」は、個人の頭の中で完結するものではなく、周囲の人との関わりの中で紡がれます。誰かの温かい言葉やささいな交流があった日は「もう少し生きてみよう」と思え、逆に落ち込む日は「消えてしまいたい」と傾きます。意思とは固定されたものではなく、他者との相互作用の中で刻一刻と変化する動的な現象に過ぎません。
この「自己決定のゆらぎ」が厄介なのは、人間の感情や意思が本質的に可逆的(変わる可能性がある)であるのに対し、安楽死や自死という選択は完全な不可逆(二度とやり直せない)なものだからです。
「その日の体調」や「たまたま起きた出来事」によって一時的に死に傾いた意思が、そのまま二度と戻れない決定として処理されてしまうリスクを、制度の仕組みだけで排除することは不可能なのです。
この問題を理解する上で、アメリカの自殺の名所で有名なゴールデンゲートブリッジを定点観測したことで衝撃を呼んだドキュメンタリー映画『ブリッジ』(監督:エリック・スティール、2006年)がとても参考になります。
追跡取材に応じた自殺未遂者の青年は、ゴールデンゲートブリッジから飛び降りた瞬間、「死にたくない」と強烈な後悔がこみ上げ、空中で必死に体勢を変えたと証言しています。幸い彼は、腰骨骨折などの重傷を負いながら一命を取りとめましたが、似たようなケースで亡くなった人々が決して少なくないことがうかがえます。
緩和ケア医の森田達也さんは、積極的安楽死や自殺ほう助などについて、「不可逆な選択をした場合のリスクは、『もし見込みが違っていても取り戻せないこと』」と明確に述べています。
「自殺ほう助の時に内服したバルビツールで薄れゆく意識の中で、『あ、あれすればまだ痛みが取れたかもしれない…』と思い出しても後の祭りである。これについては、筆者の価値観では、そのような後悔は毎日毎日つきものであり、終末期に限ったことではない」(森田達也著『終末期の苦痛がなくならない時、何が選択できるのか? 苦痛緩和のための鎮静〔セデーション〕』医学書院)と指摘します。
普段の生活でも、Aランチを注文した後に「やっぱりBランチにすれば良かった」と思った経験は誰にでもあると思います。「別の店にすれば良かった」も同じです。心理的なメカニズムの面では、日々の身近な決断における「あっちにすればよかった」という「後悔」と安楽死などにおける「ゆらぎ」のメカニズム自体は本質的に変わらないのです。
『終末パートナー』では、これがリアルに感じられる作りになっているため、非常に説得力のある疑似体験として読者を当事者の立場におくことに成功しています。
恐らく本作があえて「余命条件を設けない制度」を採用したのは、余命条件を外すことによって、個人の苦痛に対処する選択肢を広げる一方で、社会の側が「生きづらさを抱える弱者」を安易に死へと追いやる危険性をはらむことを示すためです。
その背景には、財政圧迫による医療リソースの削減や、社会的支援の欠落などによって、患者本人に「社会のお荷物感」「生きていることへの自責の念」が芽生え、安楽死がその苦しみから逃れられる「出口」に見えてしまう構造的な課題があるからです。
もう一つは、「死にたいという精神的症状」と「自律的な死の意思決定」をどう区別するのかという安楽死の現場で起こっている難問の提示です。オランダ、ベルギー、ルクセンブルクなどでは、がんなどの末期患者だけでなく、難治性の精神疾患や重いうつ病、認知症の初期段階も対象に含まれています。
「なぜそれをやる必要があるのか?」――これは「主観的な苦痛」(他者が絶対に経験できない聖域)と「客観的な便益」(周囲の人々の利益や数値化できる価値)の間の絶対に埋まらない溝であり、そこには「正解のない答え」しかありません。
安楽死だけではありません。身体障がい、認知症、介護――長寿化が進む私たちにとって、今後、どのような段階においても「正解のない答え」と付き合わざるを得ません。『終末パートナー』は、そんな重いテーマであるにもかかわらず、軽やかに核心に迫っています。
(評論家、著述家 真鍋厚)








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