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ノーラン新作「オデュッセイア」は反テクノロジーの警告? 映画から読み解く「スマホ依存」脱却のヒント

映画『オデュッセイア』と現代社会の共通点について、評論家が考察します。

スクリーンに没入し、スマホを置く…『オデュッセイア』が示唆するデジタルデトックスとは(画像はイメージ)
スクリーンに没入し、スマホを置く…『オデュッセイア』が示唆するデジタルデトックスとは(画像はイメージ)

 9月の公開と同時に、世界的ヒットとなった映画『オデュッセイア』(監督:クリストファー・ノーラン、2026年)。日本でも興行収入が20億円を超え、鑑賞後の感想や考察に対する関心も高いことから、SNS上でもトレンド入りが続いています。

人間の思考を侵食するAI

※ここからはネタバレを含むため、未鑑賞の人はご注意ください。

 本作は、ギリシャ神話を、現代人向けに焼き直した野心作です。ホメロスによる原典が「神々と英雄の讃歌」であったのに対し、映画は「戦場から生還した男の過酷な帰還と、その回復のプロセス」という人間主体のドラマへ昇華されています。

 現時点でも実に多くの批評が書かれていますが、筆者は、あえて現代社会における実用主義的な観点から、物語のメッセージを読み解いてみたいと思います。キーワードになるのは、「反テクノロジーの寓話」です。

 前作『オッペンハイマー』(2023年)で、「制御不能な破壊的技術を生み出した科学者の苦悩」を描いたノーラン監督の文脈を踏まえると、古代ギリシャの「トロイア戦争」で使われた「トロイの木馬」は、かつての「核兵器」に匹敵するゲームチェンジャーの象徴として解釈することができると思います。

 現代における「核兵器」とは、人間を超える知能を持つ「AGI(汎用人工知能)」や「ASI(超人工知能)」の出現が懸念されている「生成AI」でしょう。映画版における木馬の描写と、現代の生成AIに対する危機感は、以下の3つの側面で強く共鳴しています。

 1つ目は、無償の「ギフト」として自ら城内に招き入れる恐怖です。生成AIは、圧倒的な生産性向上や問題解決の「画期的な贈り物(ギフト)」として社会に実装されました。トロイア市民が警戒を解いて自ら城壁を壊し木馬を引き入れたように、人類もその新奇性と驚きに目を奪われ、安全性の検証や倫理的な問題を後回しにしてシステムの中枢へAIを組み込んでいる現状と酷似しています。

 2つ目は、「ブラックボックス」による内部からの人間性の侵食です。木馬の内部には「人工物に擬態した人間」が潜んでいました。AIもまた、内部処理プロセスが可視化されないブラックボックスでありながら、人間の知性や言語、創作力を模倣します。労せずして「思考の外注化」を進めた結果、内側から人間の文化や意思決定権が乗っ取られていく構図が二重写しになっています。

 3つ目は、知略(メタ=思考)の自動化がもたらすモラルの消滅です。対話や正規軍同士による一般的な戦闘(正々堂々たる肉体の格闘)ではなく、木馬という「ルール破り・奇策」に打って出たことで、トロイアは虐殺の舞台となり、オデュッセウス自身も神々の怒りを買って10年の漂流を強いられました。人間の泥臭い対話や伝統的な倫理観をスキップして効率に頼った代償として、人間性そのものが崩壊していくという警告です。

 オデュッセウスが木馬という「禁断の知恵」を解き放った後悔を抱えて漂流するように、私達もAIという木馬を社会に招き入れた後の「長い模索の旅(オデュッセイア)」を開始しているのかもしれません。

 この劇中のファンタジー要素を現代のデジタル生態系へと置き換える試みによって、木馬以外のエピソードについても、根本的な課題とそれらと向き合うための手掛かりをメタファー(暗喩)として理解することができます。

 海の岩礁から美しい歌声でオデュッセウスらを惑わし、船を難破させて喰い殺そうとする「セイレーン」(人魚)は、スマホ依存と「過剰な通知」を表しています。脳の報酬系を直接揺さぶり、自制心を破壊する美声は、24時間アテンションを奪い続けるデジタルデバイスのメタファーです。

 耳をふさぎ、物理的に己を縛り付ける対策は、環境そのものを遮断する「物理的デジタルデトックス」にほかなりません。

 秘薬を使う魔女「キルケー」は、アルゴリズムと「心地よい家畜化」を機能的に体現しています。望むものを何でも与えて人間を豚に変える毒薬は、ユーザーの欲望をパーソナライズして思考力を奪い、依存状態(家畜化)へと落とし込むSNSや動画プラットフォームのアルゴリズムそのものです。

 また、1つ目の巨人ポリュペーモスへ矢を射る行為は、アテンション・エコノミー(注目経済)と「炎上・レスバ」と見ることができます。黙って立ち去れば安全だったにもかかわらず、感情的な一打(矢)を加えてしまった行為(原典では、慢心から大声で自分の名前を名乗る)は、ネット上のあおりや怒りに耐えきれず余計なリアクションを返し、結果として破滅的なアルゴリズムの嵐(ポセイドンの怒り)を自ら呼び寄せる「アテンション依存のわな」と重なります。

デジタルまみれの現代から脱却

 そして、そもそもオデュッセウスの過酷な航海自体が、「認知の主導権を取り戻すための旅」なのです。テクノロジーに思考や感情をアウトソーシングし続けた現代人が、絶望と内省を経て自らの意志と肉体感覚を取り戻していく「人間性回復のプロセス」として読み解けるのです。単なる「テクノロジーの全否定」ではなく、「自己を拡張する技術」の裏に潜む「認知の乗っ取り」に抵抗する精神を描いた神話といえます。

 終盤に登場する、みすぼらしい無宿の老人に変装したオデュッセウスは、あらゆる「外部的拡張(テクノロジー、肩書、人物特性)」を削ぎ落とし、生身の肉体感覚と直感を取り戻した「脱デジタル・人間性の復権」そのものです。

 王としての豪華な衣や、トロイの木馬的な詐術を手放すことで、彼は情報過多や過剰なアテンションから完全に解放されました。自らを最下層に置くことで、他者の「計算された演技やプロパガンダ」を見抜き、誰が真実の絆(豚飼いエウマイオスや愛犬アルゴス)を持ち、誰が虚飾と利己心(求婚者たち)にまみれているかを、一切のフィルターがない裸の目(アナログな洞察力)で見極めることが可能になっています。

 それもそのはず、古代ギリシャにおいて、みすぼらしい旅人や物乞いの老人は、「神々(特に最高神ゼウス)が人間の道徳心を試すために変装した姿かもしれない」と本気で信じられていたからです。見知らぬ者も無条件にもてなす「クセニア」(客人歓待)のおきてと一体になっています。

 いわば外部からの承認欲求を完全に絶ったからこそ、彼は嘲笑や暴言にも揺らぐことのない境地に達することができたといえます。

 そのように考えていくと、最終的に求婚者たちを討ち果たす武器が「最新の奇策」ではなく、長年の鍛錬と肉体感覚に裏打ちされた「自らの古い弓」であった点も説得的です。テクノロジーに依存した者たちを、泥臭い人間性の力で打ち破るカタルシスがそこにあるからです。

「脱デジタル主義者」の監督の意図を反映?

 ノーラン監督が個人メールを持たず、ガラケーを愛用し、ネットに接続しないパソコンで脚本を書く「徹底した脱デジタル主義者」であることがよく知られていますが、この点がこの「反テクノロジー」解釈のリアリティを支える最大の根拠です。彼自身のライフスタイルそのものが、劇中でオデュッセウスが行なった「ノイズからの遮断」そのものといえるでしょう。

 監督の生き様と映画のテーマ性がどう重なっているのかは一目瞭然です。ノーラン監督がスマホを拒む理由は「絶え間ない通知によって思考が細切れになり、深い創造的な集中が奪われるから」です(セイレーンを拒む「物理的遮断」の実践)。

 映画制作において、安易なCGIやデジタル合成に依存せず、実写セットやIMAXフィルムという生身のアナログ撮影にこだわる姿勢も一貫しています。便利だが身体感覚などを削ぎ落としてしまう「破壊的技術」に対する批評的距離感が現場でも実践されているのです。

 つまり、自らがアルゴリズムやアテンション・エコノミーの当事者(中毒者)ではないからこそ、現代社会のゆがみを過不足なく見渡し、映画に落とし込むことができるのです。

 デジタルネイティブであるZ世代にとって、この映画は究極の「デジタル・ウェルビーイング(健全なデジタル機器との付き合い方)の物語」に映ることでしょう。幼少期からアルゴリズムによるアテンションの奪い合いやSNS上の炎上にさらされ、精神的疲弊を日常的に抱える彼らにとって、オデュッセウスが外部の装飾を手放して「誰でもない自分」へ戻っていく生き方は、まるでメンタルサバイバルの教科書のようです。

 ここで問われているのは、「過剰に拡張され過ぎた情報社会において、どうやって等身大の身体と正気を取り戻すか」という現代的課題なのです。

 ノーラン監督がIMAXの超巨大フィルムと地鳴りのような音響システムで再現しようとしているのは、デジタル配信の「無味乾燥のデータ」に解体される前の、あの「物理的に全身で物語を浴びる」という人類の原体験そのものの再現といえます。

 かつて吟遊詩人(アオイドス)が竪琴を弾き、声の振動と熱量で聴衆の身体を直接揺さぶっていた古代の広場(アゴラ)や、往時に息づいていた即興性とライブ感(ノーランによる現代的な大胆なアレンジ)を継承しつつ、古代から連綿と続く「集まって物語の体験を共有する」という人間の根源的な営みを、デジタル全盛の現代において最も先鋭化した形でよみがえらせているのかもしれません。

(評論家、著述家 真鍋厚)

【画像】「えっ…!?」 これが「スマホ依存」を改善する方法です

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真鍋厚(まなべ・あつし)

評論家・著述家

1979年、奈良県生まれ。大阪芸術大学大学院修士課程修了。出版社に勤める傍ら評論活動を展開。著書に「テロリスト・ワールド」(現代書館)、「不寛容という不安」(彩流社)、「山本太郎とN国党 SNSが変える民主主義」(光文社新書)。

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