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今どきの若者事情、その「慎ましい」言葉がアダになる

消極的な若者と積極的な若者のビジネス対決

 今さら説明することもなく、「機会がありましたら」は「もう会わないよ(会いたくないよ)」という婉曲な拒絶の社交辞令です。この語用法が生活上、定着しているなら問題はありません。

 下校時に「ごきげんよう」とあいさつする“お嬢様学校”がまだあるそうです。これだって、「ご機嫌うるわしく」と相手を思いやって言っているとは誰も思いません。単なる「じゃ、またね」の自動変換ターム。固定化した社交辞令は写真を撮るときの「ピース」と同じで、形骸化した意味より利便性が勝っているだけです。

 では「機会がありましたら」も、この「ごきげんよう」と同じくらい自動変換されているのでしょうか。残念ながらそこまで定着してはいません。そのため若者が意図しない「摩擦」が、中高年層に生じてしまっているケースが多いのではないでしょうか。

 先の老人ではないですが、中高年の中には言葉の順応能力に劣る人もいます。あるいは「拒絶」の意味を理解していても、変な裏読みをする場合があり、いたずらに、若者との「摩擦」を起こす場合があります。「機会がありましたら」は本来的に、「円滑な関係性を維持するために使われる言葉」です。現在はその意味が、まだ「拒絶」まで脱皮し切れていない時期にあります。

 如才ない若者は「機会がありましたら」がダブルミーニングの過渡期だと知っています。それがかえって「損」を若者にもたらす結果を招いているのです。「関係性を維持しますよ」の控えめな表現として、本来的な意味で「機会がありましたら」を使ったつもりが「拒絶」と受け取られるかもしれません。

 そこまで極端ではなくとも、たまたま相手が裏読みする中高年ということもあります。「機会は誰が設けるんだ? オレか? ずいぶん偉そうな上から目線なヤツだな」と悪意に解釈されたら、関係修復に余計なリスクやコストが生じる危険性もあるのです。

 あるいは「機会があれば」を消極的な態度と捉える中高年もいることでしょう。ビジネスはパイの取り合い。消極的な若者と積極的な若者のどちらがパイをゲットできるかは火を見るより明らかです。

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サイゴー・ヴァン・ウィンクル

辛口社会エッセイスト

1960年代生まれで学生時代は「新人類」と呼ばれた。バブルを満喫した一方で、暗黒の不況時代の辛苦も味わった「酸いも甘いも知り尽くした」悲しいジェネレーション。シニカルにして小心者。得意とするのは、池上彰が教えてくれない社会時評。ナポリタンと椎名林檎をこよなく愛する。

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