学校で障害ある子を助けすぎてない? 自閉症児の母が考える“本当に必要な支援”
自閉症児を育ててきた筆者が、介護職員初任者研修(旧ホームヘルパー2級)の受講を通じて感じた「障害児の子育て」についての思いをつづります。

私には知的障害のある26歳の自閉症の息子がいて、何らかの障害があるお子さんの保護者からさまざまな相談を受けることがあります。
現在、私は介護職員初任者研修(旧ホームヘルパー2級)を受講していますが、この研修で学んだ内容がとても印象に残っています。高齢者介護だけでなく、障害のある子どもの支援にもそのまま当てはまるのではないかと感じました。
「何をしてあげるか」ではなく「どうすれば自分でできるか」
研修では、「人は一つの欲求が満たされると、自信や達成感を得て、さらに次の目標へ向かう意欲が生まれる」と学びました。そして、その過程を支える介護職員の役割は、利用者の欲求を理解し、達成を共に喜ぶことです。誰かに認められ、努力を評価されることは、人が生きる力を育てます。
一方で、介護職員への依存が強くなりすぎたり、何でも代わりにやってしまったりすると、利用者は自分でできることまで失ってしまいます。達成感や自己肯定感を得る機会も減ってしまいます。
そのため介護職員は、利用者の身体状況や能力をよく観察し、「何をしてあげるか」ではなく、「どうすれば本人が自分でできるか」を考えなければなりません。利用者の要望をすべて代行するのではなく、自分の力で欲求を実現できるよう支援することが大切だという内容でした。
移動支援の現場で見える「体験を奪う手助け」
私は、障害者や障害児が安全に外出できるよう、ガイドヘルパーなどの付き添いをする、いわゆる移動支援の仕事もしていますが、この考え方は障害福祉の現場でもまったく同じだと思いました。
例えば、利用者さんがコンビニでお菓子を買う場面です。
利用者さんがお菓子を選んだあと、ヘルパーがお財布からお金を取り出し、代わりに支払いを済ませることがあります。「お金の計算が難しいから」「時間がかかるから」という理由かもしれません。
しかし、それでは利用者さんは「買い物をした」という体験を十分に得ることができません。
もちろん、130円と言われて130円を自分で正確に出せない方もいます。でも、ヘルパーが必要な金額を準備し、そのお金を本人に持たせてレジで店員さんに渡してもらうことはできます。
「自分でお金を差し出し、商品を受け取る」という一連の経験こそが大切だと思います。
駅の券売機でも同じです。「この人はお金が分からないから」とヘルパーが代わりに切符を買ってしまえば、利用者さんは切符を買う経験ができません。たとえ料金を理解していなくても、お金を投入し、自分でボタンを押し、切符を受け取る経験はできます。その経験の積み重ねが、自信や生活能力につながっていくのではないでしょうか。
実は私も、このことを自分への戒めとして考えています。後日、50代の知的障害のある人の移動支援に行く予定ですが、できることはできるだけご本人にやっていただこうと思っています。
「自分で決めた」実感が生きる意欲になる
研修では、訪問介護の具体例も学びました。
例えば利用者さんの家に入り、冷蔵庫の中を見ると、ニンジン、タマネギ、ジャガイモ、豚肉があります。介護職員が勝手に「カレーを作ろう」と決めて調理し、「はい、どうぞ」と出したとします。
しかし利用者さんは、「昨日もカレーだったから今日は食べたくない」と思っているかもしれません。これでは支援ではなく、押し付けになってしまいます。
そうではなく、「ニンジン、タマネギ、ジャガイモ、豚肉がありますが、何を作りましょうか」と利用者さんに聞くのです。「昨日カレーだったから肉じゃががいいわ」と言われたら、「では肉じゃがを作りましょう」と一緒に決めるのです。
さらに、ニンジンを切れる場合はニンジンを切ってもらう、難しい部分だけ介護職員が手伝うというやり方にすることで、「自分で決めた」「自分も参加した」という実感が生まれ、生きる意欲や喜びにつながります。
学校現場で起きている「過介護」
私は研修でこの話を聞きながら、「障害のある子どもへの支援も同じだ」と感じました。
テレビでは、重い障害のある子どもを周囲の子どもたちが助け、その様子を美談として紹介することがあります。
もちろん、人には誰かの役に立ちたいという気持ちがあります。子どもたちも友達を助けることで先生に認められたり、自分の存在価値を感じたりするでしょう。それ自体は素晴らしいことです。
しかし、何もかも周囲がやってくれる環境が、その障害のある子ども本人にとって本当によいことなのでしょうか。私は疑問に思います。
やはり本人にできることは本人にやってもらい、本当に難しい部分だけ支援することが大切ではないでしょうか。
例えば着替えです。通常級や支援級では時間に追われることがあります。体育の時間が迫っているとき、ボタンを外すのに時間がかかる子どもがいると、周囲の子どもや先生が「早くしよう」と全部やってしまうことがあります。
しかし、その子がボタンを一つでも外せるなら、その部分は本人にやってもらった方がよいと思います。
全部できなくても構いません。できるところは本人が行い、できないところだけ手伝うというのが本来の支援だと思います。
「できることは本人に、できないことだけ支援する」
特別支援学校では、この考え方が徹底されています。私が教育実習に行った中学部でもそうでした。
実習中、私は生徒のボタンを全部留めてしまったことがあります。すると指導教官から、「本人が自分でできることまで、大人がやってしまってはいけない」と指導されました。
例えばボタンが5つあるなら、本人ができる下の2つ、3つは自分でやってもらう。難しい部分だけ支援する。それが本人の達成感につながるからです。
生理の支援でも同じです。パッドをロッカーから持ってくる、便器に座る、使用済みのパッドを外して包み、汚物入れに捨てる。そこまでできるのであれば、その部分は本人が行うべきです。
パッドを正しい位置につけることだけが難しいのであれば、その部分だけ先生が支援する。これが「できることは本人に、できないことだけ支援する」という考え方です。
私は今回、高齢者介護の研修を受けながら、この考え方は障害児支援にもまったく同じように当てはまると強く感じました。
親も支援者も、つい良かれと思って手を出してしまいます。しかし、何でも代わりにやることが本人のためになるとは限りません。大切なのは、本人が成功体験を積み重ね、自信を持ち、「自分でできた」という達成感を味わえるようにすることです。
通常級や支援級で、先生方や周りのお子さんが障害があるお子さんに対し、知らず知らずのうちに「過介護」になっていないでしょうか。できることまで奪ってしまっていないでしょうか。
支援とは、本人の代わりに生きることではありません。本人が自分らしく生きる力を育てることです。その視点を、私自身も改めて大切にしていきたいと思いました。
(子育て本著者・講演家 立石美津子)






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