葬儀は誰のためのもの? 「生きている人のため」という人に伝えたいこと
誰もが、いつかは関わるものでありながら、詳しく知る機会が少ない「葬祭」について、専門家が解説します。
「お葬式は誰のために執り行うのでしょうか。故人のためか、遺族のためか、その両方なのか。送る側か、送られる側か、その立場によっても見方は違ってきます」。こうした言葉は、個人の考えを尊重したものに聞こえます。報道などで、一般の人の声として取り上げられるのはおおむね、こういった路線です。「多様性のある自由な社会は素晴らしい」「みんなで多様性と自由を尊重しましょう」という路線からは、こう言わざるを得ないのです。
ここでちょっと立ち止まって考えてみましょう。どうしてわざわざ「生きている人のため」と言わなければならないのでしょうか。構造的に、葬儀は「亡くなった人の安寧」を願って行います。手を合わせたり、頭を下げたりするのは、故人のために祈る行為であり、「心が癒やされる」「気持ちが整理される」というのはあくまでも結果的なことです。故人のために葬儀を行うと、必然的に生きている人のためにもなる、という当たり前のことなのです。
今回は、そんな「葬儀の構造」について話していきましょう。
「生きている人のため」の土台にある価値観
「『死』がない場合に葬式は成立するものなのか」という話については、「生前葬があるじゃないか」「細胞は今この瞬間も死んでいるから、生きている最中に行われることもある」といった反論をされたことがあります。しかし生前葬は、死を迎えたときの先取りでお別れを告げる機会といえますし、細胞の死に対して葬式を行う人はいません。そのため、原則的に、葬儀は「死」という節目に行われるものだといえます。「死」に際しての行為が葬儀ということです。
ここで、一つの質問を投げ掛けてみましょう。葬儀は、死んだ人のためにはならないのでしょうか。
これは、「葬儀は生きている人のためにある」とだけ考える人たちにとっては非常に答えにくい問い掛けです。敬意を持って祈り、腐敗に進む状況から遺体を守るため、適切に処理を行います。その、一連の「故人への敬意を持った行為」が亡くなった人のためにならないとは言い難いからです。ではなぜ、「死者のため」と表現しないのでしょうか。
それはまず、「死んだ本人は何も分からない」という前提に立っているからです。「生きている人は脳や身体的器官が動いているけど、動かなくなった死者は何も分からなくなる。だから、生きている人だけが葬儀の意味や価値を感じることができる」という前提です。魂や死後の世界は概念であり、実在しないものだから、一連の行為は生きている人のためのもの。それが主張の根幹を成している、いわば「科学的」なものの見方ということになります。
この「科学的」という言葉がくせもので、実際の人間の生活や社会は、物理的に計測できない、「信じることによって存在する」ものに支えられていることが多くあります。信用や愛情、連帯、約束といった言葉も、多角的に見れば実体のないものです。それを共有する人たちが「あるもの」として扱うことによって存在を担保されています。
葬儀の決定権は遺族にある
「葬儀は生きている人のためのもの」と主張する人の中には、「死んだ人は喜ぶことができないから、葬儀にお金をかけなくていい」という意見もあります。
葬儀をどのようにするか、その決定権は遺族にあります。決定権は常に生者側にあり、故人が決定することはできません。極端にいえば、遺言書を残しても、生きている側が全員で無視することもできますし、遺族の一存で決めることもできるのです。葬儀に関する希望を伝えることはできても、ひつぎの中に入った本人が執り行うことはできません。あくまで、残った者がどう決定するかの問題になります。
葬儀を喜んでしたい、積極的にしたいという人は極めて少数で、通常は「できるだけ元気に長生きしてほしい」と思うものです。できれば家族の死は避けたいものですし、経済状況によっては、葬儀にお金を満足にかけられないときもあります。また、葬儀というものが社会的な“無駄”だと感じていて、支出する気が起きず、「お金は死者のためではなく、生きている人のためのもの。だから出さなくていい」という主張のもとになることがあります。支出を削る大義名分としても使われることがありますが、家族ごとにさまざまな都合があるのですから、できる範囲で、できるだけやれればいいのです。
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