「大往生ですね」は遺族に失礼、遺族以外は使うべきでない…言説に対する見解
誰もが、いつかは関わるものでありながら、詳しく知る機会が少ない「葬祭」について、専門家が解説します。
漫才コンビ「内海桂子・好江」で人気を博し、晩年まで現役最年長芸人として活躍した、漫才協会名誉会長の内海桂子さんが8月22日、都内の病院で永眠されました。筆者も桂子師匠の一ファンであり、訃報には驚きましたが、97歳という年齢もあり、「お疲れさまでした」という気持ちでいっぱいです。
桂子師匠の訃報に際し、ニュースサイトやSNSなどで「大往生ですね」というコメントや投稿が多くみられましたが、一部ではこれについて「『大往生』は他人が使うと、遺族に対して失礼な意味になる」と指摘する人がいるようです。しかし、本当にそうなのでしょうか。
97歳での「旅立ち」には妥当
この「失礼になる」の論拠は「大往生かどうかは、遺族により異なる。たとえ長生きであっても、遺族が大往生と感じていない場合もあるので、遺族以外が使うべきではない」というマナー講師の発言のようです。
しかし、普通に考えてみてください。97歳という年齢での死を「大往生」や「天寿を全うした」と言わないとしたら、果たして何歳なら妥当だというのでしょうか。100歳を超えなければいけないのでしょうか。
また、長年使われてきた言葉を「遺族が傷つく可能性があるから」という理由だけで奪う権利が、マナー講師にあるでしょうか。筆者は長年の葬祭業の経験から、97歳という年齢での旅立ちに際して、「大往生でしたね」はお悔やみの言葉として妥当だと思います。
もともとは、仏教徒が死後、仏の世界である「浄土」に行って生まれることを指す「往生」という言葉があり、それが立派なありさまであることから「大往生」と呼びます。生を全うし、仏の国に生まれることを「大」という強めの言葉をもって装飾しているのですから、何ら失礼なことはないはずです。大往生が失礼というなら、「大人物」も「大企業」も、そう呼ばれた人が傷つくかもしれないのでやめるべきだ、という理屈になります。
2019年の厚生労働省「簡易生命表」によれば、平均寿命は男性が81.41歳、女性が87.45歳です。もし、70代や80代での死であれば、平均より早く亡くなった印象や、「まだまだお若いのに…」という感じを受けるかもしれません。しかし、内海桂子師匠は97歳であり、100歳も目前。長生きしたというには妥当すぎるほど妥当でしょう。その旅立ちに贈る言葉として、「大往生」も「天寿を全う」も失礼な要素は全くないと思います。
マナーは社会生活に慣れていない、実体験の少ない人に教える機会が多く、「やってはいけないこと」から教える場合が多いと思います。早世した人について「大往生」という言葉は「遺族の気持ちを考慮して使わない方がいい」という教え方はあるでしょう。しかし、だからといって、全てのケースにおいて「『大往生』は使わない」「『天寿を全う』はふさわしくない」というのは過剰な「言葉狩り」であり、簡単にいえばやり過ぎといえます。
マナーには「なぜそうなっているのか」という理由があり、その上で原則が決まり、運用されます。それらが一体となっていなければ、「身に付いた」とはなかなか言えないものです。
マウンティングはやめよう
「傷つく人もいるから、○○と言ってはいけない」。一昔前まで盛んに言われていたことですが、逆にしてみれば、今までその言葉を使っていた人たちの心情を傷つけることでもあります。言葉の使い方はあくまで、「その場、その時に妥当であるかどうか」で判断するのが適切だと思います。
もしも、遺族が「『大往生』というには、ちょっと若過ぎます」とか「もっと生きていてほしかった」と悲しい気持ちを表明したならば、その時点で「失礼いたしました」と他のお悔やみの言葉を述べればよいだけの話であって、第三者が一律に「大往生は失礼になる」と決めつけるのはやり過ぎでしょう。
「失礼いたしました。惜しい人を亡くした悲しみに耐えられません。謹んでお悔やみ申し上げます」というふうに言い直せば、特別な問題は起こりません。
また、一般的に「大往生」や「天寿」は共に「長生きしての死去」の意味で理解されていますが、本来であれば、どちらの言葉も仏の国に生まれることや、天から頂いた寿命を使い切ったことを指して、「生を全うした」、すなわち、「人生をよく生きましたね」という意味です。
つまり、早くして亡くなった人に対して使ったとしても、本来の意味であれば、失礼には当たりません。慣習上、「長生き」のニュアンスが含まれるので、長寿でなかった人には使わないというだけです。
一時期、「ご冥福」も同じように言葉狩りに遭い、滅亡の危機を迎えました。「冥福」はキリスト教や浄土真宗の人に対して失礼だというロジックでした。しかし、どちらも信仰している人に聞き取りをしてみると、「そんなことは気にしない。弔問に来てくれたり、声を掛けてくれたりする方がありがたかった」というのがほとんどの意見だったのです。
社会常識に沿ったお悔やみの言葉を述べている人に対して、「それは○○だから使わない方がいいと思う」などというのは、ほとんどの場合、「私は知っている。あなたは知らない」というマウンティングのようなものです。
純朴な心からのお悔やみの言葉はそれだけで、故人の旅立ちに添えられる花のようなものです。弔いの花の形に文句をつける前に、手向けられた花が咲いていること、弔いができたことに感謝の気持ちを持つことが一番大切ではないだろうか。筆者はそのように感じます。
(佐藤葬祭社長 佐藤信顕)
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