“知らないと恥”はマナー講師のうそ? 「焼香」は何回するのが正しいのか
誰もが、いつかは関わるものでありながら、詳しく知る機会が少ない「葬祭」について、専門家が解説します。
葬儀時のお参りの作法の一つに「焼香」があります。その回数は教える人や伝える人によって異なりますが、一説には「仏法僧に供養するから3回」「過去・現在・未来に対して祈るから3回」、面白いところでは「あなたと私、そして、仏様に対して行うことだから3回」などといわれることがあります。どの理由が正しいとか間違いとかいうわけではなく、「一般的に3回」ということを伝えるためにさまざまな工夫がなされてきた、文化の豊かさとして捉えればよいでしょう。
筆者は葬儀屋という職業柄、焼香の回数や意味が各宗派によって決まっているのかどうかが気になって、裏取りをしなければと思い、代表的な伝統宗教教団の本山に電話をして調査を行ったことがあります。どの宗派でも回答はほぼ一致していて、次のような回答をもらいました。
「多くは(一応は)○回とは言われていますし、○回が一般的ですが、葬儀や法事では担当なさる僧侶がいるでしょうから、地域性、そして、その寺院のやり方があるのでお尋ねください」
宗教法人というのは仕組みとして、会社の本社/支社のような関係ではなく、各寺院が独立して運営しており、本山の意向が全て反映されるわけではありません。「○○宗」という看板を使用する緩やかなフランチャイズのようなもの、あるいは組合みたいなものなので、運営は“個人商店”である各寺院に裁量があり、一般信者さんへの接し方なども各寺院の考え方によるところがあります。
そうした背景から考えれば、「○○宗だから焼香は○回」と言い切れないのは当然のことだと思います。
マナー講師のわな
一方で焼香回数について、「宗派によってそれぞれの決まりがあるので、覚えなくてはならない」と主張しているマナー講師もいます。ところが実際、葬儀に参列する中で、宗派まで正確に判断するのは難しいといわざるを得ません。祭壇や故人の遺影は目に見えるものですが、お坊さんが何の宗派なのかを正確に把握することは、長年、葬儀の仕事をしている筆者でも困難です。
訃報には通常、宗派までは書かれていません。神道やキリスト教、無宗教など、日本の葬儀では少ない形式の場合は宗教が記載されますが、多くの仏式の葬儀の場合は「仏教」という記載さえありません。そのため、宗派の違いは、葬儀の現場に行っても簡単には判断できないというのが通常です。そして、宗派による焼香の回数には地域性もあり、回数の指導は現場のお坊さんに任されているので“絶対”のものではありません。
マナー講師は「宗派によって焼香回数は決まっています。知らないと恥をかきます」と平気で言うわけですが、実際に取材せず、葬儀の現場を“知らない”のは、そのマナー講師の方だといえるでしょう。「焼香は通常は3回。回数の説明が僧侶や葬儀社からあれば、それに従うという形でいいのです」。こうした1行で済む説明ではマナー講師の仕事がなくなってしまうから、「宗派によって決まりがある」という、非存在のありもしないマナーをつくったのでしょう。
仏教以前にも存在
さて、実はこの焼香というものは歴史が古過ぎて「何のため」かよく分からないものなのです。仏教の作法だと思われがちですが、焼香は仏教以前にも存在しましたし、キリスト教などでも見受けられる作法です。焼香は「いい香りがするからたく」という非常にシンプルな行為で、偉い人や信仰対象に向き合うときに行われていたということしか分かっていません。つまり、遠い昔から普遍的にあるものです。
一方、香をたけば、さまざまな効果が得られることもやはり、古くから指摘されており、北宋の詩人・黄庭堅(こうていけん)が「香十徳(こうじっとく)」として詠んでいます。この漢詩は「お香をたくと感覚が研ぎ澄まされる」「汚濁を取り除く」など「香をたくと10種のよいことがある」と40文字で表現しています。
十徳というのは便宜上、「十」としたものでしょうし、香りを完全に言葉で表すのは不可能です。よい香りをたく行為を「○○のため」「○○の意味がある」と言葉で語り尽くすことはできないため、代表的な10個で言い表した。つまり、「香には言葉で語り尽くせないほど、多くのよいことがある」とうたった詩なのです。
「何のために行うのか」を解き明かすよりも、焼香とは「仏様や故人など、自分の大切な存在に向き合うときに、よい香りをたくとされてきた昔からの行いだから間違いないだろう」と捉えていればよいでしょう。先述した焼香の回数の話と同様、こうした話は伝わりやすいようにさまざまな理由が語られます。
「燃料や水の確保などの問題で、昔の人はお風呂にあまり入れなかったため、体臭が強く、それを消すためだった」「仏様は香りを召し上がるので、香をたいて供えていた」「香には魔よけの効果があり、香をたくことはお参りの前に邪気を取り払う行為だった」など、いろいろな伝え方があるのは豊かであり、そうした伝承はとても大切なものだと思うのです。
ただ、本質的には「いい匂いだからたいた」「やってみたらとてもよかった」という人類の経験則がもたらした結果が「焼香」だと思います。
コメント