キレる高齢者とスマホ中毒の若者、共通点は「一人でいられる力」の欠如
「キレる高齢者」が増えているといわれますが、筆者はそこに、ある種の若者たちとの共通点を感じ取っているといいます。

「怒り」は、二次的な感情だといわれます。怒りは「結果」であり、「現象」なのであって、根底にはその原因となっている「感情」があります。
クレーム対応でも、お客の怒り自体に対応するのではなく、怒りの原因となっている感情をくみ取り、その感情にアプローチするのがコツとされますが、怒っている人は不安や焦り、恥ずかしさ、寂しさ、悲しさなどの一次的な感情をコントロールできない状態にあるのです。
孤独な環境を楽しめる高齢者
「キレる高齢者」が増えているといわれますが、この考え方に沿えば、「キレている」のは結果に過ぎず、本質的には不安や焦り、恥ずかしさ、寂しさ、悲しさといったネガティブな感情をコントロールできない高齢者が増えているということでしょう。
このような感情を生み出しているのは、高齢者が置かれる「孤独な環境」ではないかと考えられます。高齢になると、定年退職や子どもの独立、配偶者・友人の死など、さまざまなつながりや役割を喪失し、そこから得られていた承認や称賛、達成感、満足感、楽しみ、癒やしなどがなくなってしまうからです。一方で、一人でいるのに悠々としており、孤独な環境を楽しんでいるような高齢者もたくさんいます。この違いは何でしょうか。
英国の精神科医、ドナルド・ウィニコットは「一人でいられる力(the capacity to be alone)」を提唱しました。これは、子どもの発達に関する理論で、簡単にいえば、幼少期に「母親は自分を守ってくれる安全地帯だ」といった感覚を持てれば、「いつでもここに帰って来られるので、一人で冒険しても大丈夫だ」と考え、安心して一人になれるようになるというものです。
逆に、母親に対してそのような感覚を持てなければ、一人になるのを恐れて引きこもったり、嫌な人や合わない人ともつながろうとしたり、群れたりするといいます。
「安全地帯の存在が『一人でいられる力』を生む」という考え方は、高齢者にも十分当てはまります。高齢期になると、現役時代にあった他者とのつながりや、自分の居場所や役割が十分に感じられた「安全地帯」を喪失します。安全地帯を失ったままだと、「一人でいられる力」も失い、その結果、孤独によって生じるネガティブな感情をコントロールできずにキレてしまうのです。
一方で、地域の活動やボランティアや趣味のサークルへの参加などで新しいつながりや居場所を得て、安全地帯を回復した人には「一人でいられる力」があり、孤独を楽しめる上、ネガティブな感情をコントロールできます。両者の違いは、安全地帯の有無によって生じた「一人でいられる力」の差にあるのではないかと思います。
「自分らしくいられる場所」を
最近、食事中もずっとスマホをいじり続けている若い人たちをよく見かけます。その姿を見ていると、「一人でいられる力」が全くないのだろうなと感じます。職場にもプライベートにも「安全地帯」がないので、一人になるのが怖いのではないでしょうか。
昔なら、その結果、孤独な環境に耐えきれず、キレたりグレたり暴れたりする若者になったのかもしれませんが、今はスマホがあります。ネット上で群れて何となく「孤独ではない感じ」を保つことができるわけです。スマホは、安全地帯を失って「一人でいられる力」をなくした人たちが、孤独によって壊れてしまわないようにするための装置なのかもしれません。
「一人でいられる力」という理論から考えれば、「キレる高齢者」と「スマホ中毒者」は、社会の中に安全地帯が減少し、その結果として、人々が「一人でいられる力」を失い、孤独に耐えきれなくなった末に取る行動という点で共通しているといえるでしょう。
高齢者だけでなく、社会の至るところで「孤独」が問題になり、「孤独は悪い」「孤独を解消しなければならない」という意見が多く聞かれますが、それぞれが安心して自分らしくいられる居場所を確保し、「一人でいられる力」をいかに上げるかという視点も重要であるように思います。
(NPO法人・老いの工学研究所 理事長 川口雅裕)
孤独感にさいなまれるのはむしろ裕福な高齢者だろう。何もしなくとも裕福に生活できる環境が孤独感や疎外感を生じさせる。振り込め詐欺に遭うのもこんな人たちか。少なくとも自分は大丈夫だと思う。何しろ元気なうちは寝る間も惜しんで働かなければ生活できない。人とのつながりを持っていないと生きてはいけない。