お金をかけて「葬儀」をする意味が分からない 批判と疑問に回答する
一輪の花にも供える意味
「特定の形をもって、腐敗していく死者を弔う」のが葬儀ですが、では、なぜ葬儀を行うのかについては、先述した6つの理由ではなく、もっとシンプルに考えればいいと思います。
人が亡くなると、まだ生きているわれわれには2つの選択肢が発生します。一つは弔うことで、もう一つは弔わないことです。
「死者を弔う」選択をした場合、死者は「弔われた者」になり、われわれは「弔った者」になります。一方で弔わないとき、われわれは「弔わなかった者」になり、死者は「弔われなかった者」になります。どちらが安寧でしょうか。
無意識的にわれわれは、自分の行為によって、「死者の存在」と「われわれ自身の存在」を意味付けてしまうので、「死者を弔う」という行為を選択しているのです。「弔わなかった人になる」ことを選ぶ人は何らかの理由があり、そして、ごく少数なのではないかと思います。多くの人は葬儀を行うことを選ぶでしょう。
「では、立派な祭壇を飾って、僧侶にお布施を払わないと、死んだ人は安らかになれないのか?」という疑問をぶつけられることがあります。
先述の通り、葬儀の一番の目的は遺体の始末です。それさえできれば、あとは生きたことに似合うように添えられた“花”のようなものです。
立派な祭壇は「立派に生きたから似合う」ように贈られた花であり、お坊さんの読経も「仏教徒として生きた人」に咲く花です。死ぬということは「生きることが止まる」こと。その節目に手向けられる、さまざまな形をした花なのです。
旅立ちのときに手向けられる花がたくさんあるなら、それは立派なことですが、ただ一輪しか用意できなくても、それは旅立ちの場に咲いた花です。多少の問題でも、額の問題でもありません。誰かが供えてくれないと、花は存在しないのですから、きれいだと感じるだけでいいのです。
そこに花を手向け、われわれが「弔った存在」として生きていくことで、死者を「弔われた存在」としてあげることが、葬儀の意義ではないかと思います。
(佐藤葬祭社長 佐藤信顕)

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