お金をかけて「葬儀」をする意味が分からない 批判と疑問に回答する
誰もが、いつかは関わるものでありながら、詳しく知る機会が少ない「葬祭」について、専門家が解説します。
「葬儀をする意味が分からないんです」
筆者は葬儀会社の代表を務めていますが時折、そんな声を耳にすることがあります。「あんなにお金をかけなくても…」と続くのが定番の批判という形になるのですが、昨今のように新型コロナウイルスの影響で外出自粛が呼び掛けられ、葬儀も自由にできなくなってしまうと、「人が集まる」「共に食事をする」という“皆で送り出すこと”がどれだけありがたいことなのか、見えてくるところもあります。
まずは「葬」
葬儀業界には「葬祭ディレクター」という資格があり、その教科書にあたる「葬儀概論」には、葬儀の意味として「6つの理由」が書かれています。
(1)社会的な処理…お葬式には、故人が亡くなった事実を関係者に知らせる役割があります。
(2)遺体の処理…遺体には保冷処置を行い、最終的には火葬して遺骨として扱います。
(3)霊の処理…宗教的に故人の霊を見送ります。
(4)悲嘆の処理…お葬式には、遺族の悲しみを和らげる効果があります。
(5)さまざまな感情の処理…人が死ぬと、残された人たちの心をざわつかせます。さまざまな儀式を通じて、それを緩和する効果もお葬式にはあります。
(6)教育的役割…大切な人の死から学ぶことで人生観さえ変わることもあります。 例えば、お葬式は命の尊さやはかなさを教えてくれます。
一見もっともらしい理由ですが、複数の要素に分けただけで、そんなに難しいことを考えながら、長い歴史の中で「葬儀」という文化が維持されてきたとは到底思えません。要素だけでなく優先順位を考え、長年にわたる実体験を踏まえつつ、葬儀を行う理由を再定義してみようと思います。
葬儀を行う中で一番重要なのは「葬」の部分、つまり遺体の処理です。「葬」という漢字は草冠に“死”、そして下部も草を表す形でできており、「草を敷き、遺体を安置して、その上にまた草を掛ける」という土葬の姿を現したもので、遺体の始末を表しています。
始末という言葉は「物」に対して使うことが多く、不適切ではないかと言われることがありますが、「始まりから終わりまでちゃんとやる」という言葉なので、特別に敬意を欠く表現ではないと長年、葬祭業を務める上で感じています。
この「遺体の始末」はとても大変なものです。今でこそドライアイスが身近にあり、腐敗してしまうことは珍しくなりましたが、昔は保存状態がよくなかったために、死亡後数時間で腐敗臭が起こり、皮膚は変色して崩れてしまい、体液がにじみ出てくるというのが日常でした。
腐敗した遺体は病気の感染源となり、そのままにしておくことができなかったため、村や町という社会を構成する皆で力を合わせて遺体の始末を行っていました。
家族の死はいつの時代でもショックが大きく、遺族だけに任せておけば遺体の始末が終わらず、そこに住む者にとって現実的な脅威となったため、家族以外の者も手助けをして、皆で遺体を始末せざるを得なかったのです。
無宗教でも宗教形式に準じる
では、葬儀の「儀」とは何でしょうか。
葬儀という言葉は「葬送儀礼」の略であるといわれ、葬式も「式典」「儀式」の略とされています。儀礼や儀式、式典はなぜ行うのでしょうか。それは「腐敗する遺体」という根源的に怖いものを、皆で怖くないものにしていくためです。
皆で一つのことを行うとき、各人が自由に好きなように動いては統制がとれません。だからこそ、一定の決まりごとや手順を頼りに、力を合わせやすいように“形式”の力を借りて「遺体の始末」という方向に向かっていくのです。
葬儀では、朽ちていく体の始末をするとともに、そこにある魂を安寧なものにしなければなりません。ではどうするかと考えたとき、やはり先例にある「魂を安寧にする形」を頼りにしないといけません。その形を一番古くから持っていて、十分に考慮されているのが「宗教」だったのです。遺体の始末と宗教儀礼は不可分なものとして、共に積み重なってきました。
近年では「無宗教」という葬儀形式もありますが、これは「無宗の教」であり、特定の宗教形式によらないだけで、宗教形式に準じた死後の世界や祈りの形で運用されています。決して「無い宗教」という宗教を否定した形ではありません。
本当に宗教を否定するなら死後は“無”ですし、祈りもお参りも儀式も必要としませんが、実際には「無宗教葬」として弔いを行っているので、やはり「宗教形式的なものを行っている」と考えるのが素直なところでしょう。
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