【戦国の女性に学ぶ】伊達政宗の母義姫~息子と兄の戦い止めた驚きの行動~
両軍の間に80日間
1588(天正16)年夏、最上義光、伊達政宗がともに兵を動かし、最上・伊達領の境目にあたる中山(山形県上山市)でにらみあいがはじまりました。そのとき、突如、両軍の間に割って入る輿(こし)がありました。輿に乗っていたのは義姫です。
何と、彼女は輿を両軍の間に乗り入れさせ、「兄義光、子政宗が戦いをやめるまではここを動きません」と居座ってしまったのです。そして、80日、義光も政宗も折れ、戦いは回避されることになりました。実家と婚家の争いを見事に調停した例ということになるわけで、平和の維持に果たした女性の役割を知る具体例として注目されます。
実は、この一件について当事者の文書が残っているのです。1588年7月8日付の義姫宛て最上義光書状(『伊達家文書』)です。その中で義光は、「今度は、そなたまで出てきて取り成しをされた。戦いあっている諸口に停戦するよう連絡しよう。われら一代の恥であり、恥辱には思うが、そなたのため、そこを我慢することにしよう」といい、義姫の要求する停戦に応ずるという返事をしているのです。
義光がいうように、当時の武将としては、女性の口入(くにゅう、口出し)によって戦いを中止することは「一代の恥であり、恥辱」だったかもしれません。しかし、義姫が間に入ったから、義光と政宗の合戦は回避できたのです。
なお、『伊達家文書』には、義姫が実家の兄義光に伊達家の情報をひそかに届けていたことをうかがわせる記述もあります。義姫の侍女少納言という女性が最上義光に政宗からの手紙を「そとそと」見せたというものです。「そとそと」は、「そっと、そっと」でしょう。この少納言という女性は、単に義姫の侍女というだけでなく、政宗の乳母だった女性でもあるので、政宗も彼女にはかなり私的な情報も漏らしていたのではないかと思われます。
義姫は、このように、婚家で得た情報で、実家に関わりそうなことは、それこそ、「そっと、そっと」義光に漏らしていたのではないでしょうか。政略結婚で嫁いでいった女性に課せられたと思われる一つの役割を、立派に果たしていたことがうかがわれます。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)





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