【戦国の女性に学ぶ】寿桂尼~今川家支え2カ国支配した「女戦国大名」~
戦国時代を生きた女性たちから、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

戦国時代には、「女武者」とか「女城主」と呼ばれる女性が何人も登場しますが、中には領国経営を行った「女戦国大名」もいます。その一人が、駿河・遠江二カ国を実際に支配した今川寿桂尼です。戦国大名今川氏親の正室で、夫氏親の死後、出家して寿桂尼と名乗りましたが、出家前の名前は分かっていません。
「今川仮名目録」作成に関与?
彼女は武家の娘ではありません。京都の公家、中御門宣胤(なかみかど・のぶたね)の娘です。当時は武家同士の結婚が一般的でしたが、今川家は文化人大名として知られ、氏親の祖父にあたる範政が中御門家とつながりがあったようなのです。公家も、応仁・文明の乱以降、荘園からの収入が減り、地方大名と結びつくことで経済的なメリットもあったと考えられています。
寿桂尼は何人かの男子・女子に恵まれ、幸せな日々を送っていましたが、夫氏親が1526(大永6)年6月23日に亡くなったことで、思わぬ展開になります。このとき、嫡男の氏輝は14歳でした。すでに元服していたので、そのまま氏輝が家督を継いでいます。
武将の中には、14歳という若さで家督を継いで、立派に家をまとめた人もいます。しかし、氏輝は若いというだけでなく、やや病弱だったのです。このような場合、普通は男性の家老が後見人になったり、名代となって切り盛りしたりする形になりますが、何と、寿桂尼が政治の第一線に立ったのです。
なぜ、男性の家老でなく、女性の寿桂尼が前面に出るようになったのか、書かれたものがないので推測するしかありません。考えられることの一つは、夫氏親が、亡くなる10年ほど前から中風で寝たきりの状態が長かったといわれていることと関係します。氏親が亡くなる直前、戦国家法として有名な「今川仮名目録」が制定されましたが、どうやら寿桂尼は、寝たきりの夫氏親を助けながら「今川仮名目録」の作成にタッチしていたようなのです。
政治に全く無知だったら、「氏輝の後見人を私がやりましょう」とは言えなかったでしょう。「今川仮名目録」の作成を手伝っていたので、政治の表舞台に立ってもやっていけると考えたものと思われます。
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