【戦国の女性に学ぶ】寿桂尼~今川家支え2カ国支配した「女戦国大名」~
義元の擁立にも影響力
なお、今日、発見されている文書の中で、氏親が亡くなって子氏輝が家督を継いで3カ月ほどは、今川氏の領国経営に関する文書は見られません。若く、病弱な氏輝が支配に関する文書を出せるかどうか、寿桂尼がぎりぎり待ったのがこの3カ月だと筆者はみています。
結局、「氏輝には無理」と判断した寿桂尼が1526年9月26日から、自分の印判を押した文書で領国支配に乗り出しています。女性は花押を持っていませんので、「歸」という一字を彫った印判を使っています。
こうした状態が1年ほど続き、ようやく、1528(大永8)年3月28日になって、氏輝の花押が据えられた文書が現れます。氏輝が政治に復帰し、寿桂尼の代役は終わった形になりました。彼女は「やれやれ」と思ったかもしれません。ところが、氏輝が政務を執ることができたのは、わずか半年間にすぎませんでした。同年10月18日から再び、寿桂尼が第一線に立ち、印判状を出すようになっているのです。
結局、この後、氏輝が連続して文書を出せるようになるのは1532(天文元)年4月21日からですので、夫氏親が亡くなってからの6年間は、寿桂尼が「女戦国大名」として駿河・遠江2カ国を支配していたことになります。
そして、寿桂尼がもう一度、歴史の表舞台に立つことがありました。氏輝が1536(天文5)年3月17日、24歳の若さで亡くなってしまい、後継者争いが起こります。そのとき、寿桂尼が推した義元が家督を継ぐことになりました。義元は氏輝の弟であり、今川家の勢力をさらに伸ばしていきます。寿桂尼はようやく安心して、第一線を退くことができたのです。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)






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