【戦国の女性に学ぶ】千代~山内一豊の出世実現させた「10両」と「密書」~
戦国時代を生きた女性たちから、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。
今回から少し趣向を変え、「戦国の女性に学ぶ」というタイトルで、戦国女性の生き方を中心に取りあげたいと思います。初回は山内一豊の妻千代です。千代については、2006年のNHK大河ドラマ「功名が辻」の主人公にもなりましたので、ご覧になっていた人も多いのではないでしょうか。「内助の功」「へそくり女房」といった言葉がついてまわります。名馬購入の一件で、夫一豊を出世させた賢夫人という印象がありますが、実際はどうだったのでしょうか。
「へそくり女房」の真実
彼女の出身地については2説あります。一つは美濃出身説です。美濃の豪族遠藤氏の出身というもので、具体的には、郡上八幡城(岐阜県郡上市)の城主遠藤盛数の子慶隆の妹とするものです。
もう一つが近江説で、近江の飯村(いむら、滋賀県米原市飯)の土豪若宮氏の娘とする説です。NHK大河ドラマでは近江説で放送されました。
一豊と千代の結婚は1570(元亀元)年から1573(天正元)年の間のことといわれています。1570年なら一豊は26歳、1573年なら29歳ということになります。千代は1557(弘治3)年の生まれとされていますので、14歳から17歳の頃ということになります。
一豊はその頃まで、信長の家臣として、秀吉の与力となっていました。ところが、1573(天正元)年、浅井長政の居城小谷城(滋賀県長浜市)が落とされ、浅井氏が滅亡。秀吉にその遺領北近江12万石が与えられることになり、秀吉は12万石に見合う家臣団が必要となりました。そのとき、信長家臣で秀吉与力だった山内一豊らが、秀吉家臣団に組み込まれることになったのです。一豊は400石の知行を与えられています。
その頃の山内家の貧乏生活を伝えるエピソードがいくつか伝えられています。まな板さえなく、升を裏返して代用したなどの話も伝えられていますが、そのようなときに、名馬購入の一件が起こります。
ある馬市で一豊が名馬を見つけ、値段を聞くと10両と言われ、手が出ません。家に戻って「あの馬が欲しかったな」と独り言をいうと、それを聞いた千代が、値段が10両と知って鏡の箱の底から10両を取り出し、「買ってきなさいよ」と言い、その名馬が信長の目に留まり、出世をしたという話です。
この10両を、普通は、夫に内緒で蓄えていたへそくりとして、「へそくり女房」という異名が付いたわけですが、これはへそくりではなく、千代が一豊のところに嫁いでくるとき、実家から持ってきた持参金だったのです。当時の言葉で「敷銭(しきせん)」といっています。これは、結婚しても夫の財産には入れず、万一、離縁したときには、この「敷銭」を持って、実家に戻ることになっていました。
家康を喜ばせた密書
千代が夫一豊の出世を手助けした、もう一つの出来事があります。1600(慶長5)年の関ケ原の戦い直前のことです。家康が会津上杉攻めに向かって下野の小山(栃木県小山市)まで来たときです。
石田三成が挙兵したという情報がいくつか届けられましたが、千代からも一豊に密書が届いていました。注目されるのは、その密書に、「封を開けずにそのまま家康さまに届けなさい」と書かれていたということです。
一豊はその通り、封を開けず家康に届けたといわれています。正確な上方情報が欲しかった家康は、開封されないまま届けられた密書を喜びました。
一豊は、9月15日の関ケ原の戦い当日にはこれといった戦功がなかったにもかかわらず、掛川5万9000石から土佐高知20万石へ栄転しました。この大出世については、「小山評定」での一豊自身の発言も評価されたようですが、この千代の密書の効果も大きかったといわれています。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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