【戦国の女性に学ぶ】伊達政宗の母義姫~息子と兄の戦い止めた驚きの行動~
戦国時代を生きた女性たちから、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

山形城(山形市)の最上氏と、米沢城(山形県米沢市)の伊達氏は、領地の境を接するライバル関係にありました。両家で戦国大名として有名なのが、最上義光(よしあき)と伊達政宗ですが、今回は、義光の妹であり、政宗の母である義姫を紹介します。
最上家から伊達家に嫁ぐ
最上氏の祖とされる最上兼頼は、奥州探題斯波(しば)家兼の子で、その頃、最上地方は南朝勢力が強く、そこを押さえる必要から、わが子を出羽按察使(あぜち、地方行政の監督者)として送り込んだわけです。そのまま最上地方に土着し、最上を名乗っていました。
伊達氏は、藤原山蔭(平安時代に中納言などを務めた貴族)の子孫朝宗が、1189(文治5)年、源頼朝の奥州攻めに際し、4人の子どもを従軍させ、その戦功によって陸奥国伊達郡を与えられ、伊達を称したのが始まりといわれています。なお、伊達氏は14代稙宗(たねむね)のとき、陸奥国守護職を得ています。さらに、1536(天文5)年には分国法「塵芥集(じんかいしゅう)」を制定し、戦国大名の仲間入りを果たしています。
15代晴宗のとき、居城を米沢に移しているわけですが、これは、伊達氏がさらに領国を北へ拡大しようとする意図の表れですし、最上氏の進出をけん制しようとするものでした。
その晴宗の子輝宗に嫁いだのが最上義守の娘の義姫です。2人の間には政宗も生まれ、小康状態が保たれていました。ところが、それぞれ代が替わって、義守の子義光、輝宗の子政宗の代になると一触即発の事態を迎えています。義光は義姫の兄ですので、伯父とおいの関係ですが、とうとう戦いになりました。
なお、義姫は米沢城でお東(ひがし)と呼ばれていましたが、夫輝宗が亡くなった後、落飾(髪を落として出家)し、保春院と称しています。
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