【戦国の女性に学ぶ】お市の方~「戦国一の美女」を再び襲った悲劇~
戦国時代を生きた女性たちから、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

「戦国一の美女」などといわれるのが、織田信長の妹「お市の方」です。生まれた年がはっきりしていませんが、1547(天文16)年とする説が有力です。信長の妹とはいっても、1534(天文3)年生まれの信長とは13歳も離れていますし、結婚も兄信長の意向によるものでした。
「小豆の袋」真偽は?
その結婚相手というのが、北近江の戦国大名、小谷城主の浅井長政で、これは典型的な政略結婚でした。信長が美濃の戦国大名斎藤龍興と戦うため、美濃の西、近江の浅井長政と手を結ぶ目的でした。これを「遠交近攻同盟」といっています。
つまり、遠く離れた者同士が手を組み、間に挟まれた近くの敵を攻めるというものです。お市の方が長政に嫁いだのは1567(永禄10)年末か、翌年早々のことといわれています。
その効果はすぐ現れ、信長は斎藤氏を滅ぼしています。また、長政も、信長が足利義昭を擁して上洛(じょうらく)するときには、信長と一緒に南近江の戦国大名六角氏を攻めていますので、信長としても、義弟となった長政に期待するところが大きかったと思われます。
ところが、1570(元亀元)年4月、信長が越前朝倉攻めに向かった際、長政は突然反旗を翻しました。通説では、このとき、夫長政が謀反したことを兄信長に知らせるため、両端を縛った小豆の袋を信長に送ったといわれています。「お兄さん、袋のねずみですよ」というわけです。小説にも描かれ、映画やドラマでもそのシーンが出てきますので、ある意味、国民的常識といっていいのかもしれません。
このシーン、確かに江戸時代に書かれた軍記物には出てきます。しかし、作られた話のようにも思います。なぜかといえば、この後、お市の方は離縁されることなく、そのまま小谷城に残り、次女の初、三女の江を産んでいるからです。兄信長が小谷城を攻める中、何と、3年間もお市の方は夫長政と籠城を続けたのです。
結局、1573(天正元)年8月末までお市の方は小谷城に籠城し続け、「落城近し」というところで、信長の意を受けた羽柴秀吉の使者が小谷城に出向き、「お市の方と3人の娘の命を救いたい」と申し出ます。長政もこの申し出に応じ、落城寸前、お市の方と3人の娘は小谷城を出ています。
おそらく、このとき、お市の方は長政の長男「万福丸」の助命嘆願をしたものと思われます。万福丸はお市の方が産んだ子どもではありませんが、わが子同様に育てていたこともあり、兄信長の恩情にすがろうとしたのではないでしょうか。
しかし、時は戦国の世、長政の子を生かしておいては、いつ、「親の敵(かたき)」と襲ってくるか分かりませんので、万福丸は秀吉の手によって殺されています。このことによって、お市の方は信長・秀吉を恨むことになったはずです。
柴田勝家と城に残る
この後、お市の方は3人の娘と、信長の弟織田信包(のぶかね)に預けられることになり、信包の居城伊勢上野城で平和に暮らしていました。しかし、その平穏な生活も、1582(天正10)年6月2日の本能寺の変によって終わります。再び、政略の道具に使われてしまったからです。これが柴田勝家との再婚です。
お市の方としても、勝家が秀吉の対抗馬であることは承知していました。夫長政、その子万福丸を秀吉に殺されたということで、秀吉に対する恨みから、その対抗馬の勝家の求愛を受け入れる気になったのかもしれません。
ところが勝家との結婚期間は短く、翌1583(天正11)年4月、賤ケ岳の戦いで勝家が負け、居城の越前北庄城も攻められます。このとき、秀吉はお市の方と3人の娘の命を助けると言ってきました。3人の娘は城を出たものの、お市の方は勝家とともに城に残り、自害して、その悲劇的な生涯を終えました。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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