【戦国の女性に学ぶ】立花道雪の娘~家督継ぎ、「女城主」に~
戦国時代を生きた女性たちから、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

「戦国女性はみじめだった」といわれることがあります。その理由として、「女だから家督を継げなかった」ということが挙げられています。確かに江戸時代初期、跡継ぎの男子がいなくてお家断絶という例が多くあり、戦国時代もそうだったと思われているからです。
ところが、戦国時代は、女性も家督を継いでいたのです。珍しいことではありますが、何人か具体例があり、その一人が立花道雪の娘●千代(ぎんちよ、●は「門」がまえに「言」、以下同)です。●千世とも書かれることがあります。
7歳で家督継ぐ
立花道雪、元は戸次鑑連(べっき・あきつら)といいました。立花家の名跡を継ぎ、立花を名乗っています。大友宗麟の重臣として筑前立花城(福岡市東区など)の城主となっていましたが、子どもは●千代と名乗る娘一人しかいませんでした。主君宗麟も家督を心配し、「養子を迎えたらどうだ」と再三勧告していますが、どういうわけか道雪は首を縦に振りませんでした。
すると、1575(天正3)年のことですが、道雪は宗麟に、「娘に家督を譲りたい。許可してほしい」と要望したのです。この年、●千代は1569(永禄12)年生まれなので、まだわずか7歳です。その申請を許可した文書が「立花文書」の中に残っていますので、現代訳をして引用しておきましょう。宗麟と、子の大友義統(よしむね)が、麟白軒と称していた道雪に与えたものです。
「息女●千世への譲状の趣は家臣たちにも披露した。広く知らせるためである。立花城にある置物などもしっかり渡されるとのこと。感心する次第である。これからも、堺目の防備等に力を入れるように」
「(天正3年)六月十八日」の日付と、宗麟、義統の花押があり、麟白軒(道雪)宛てとなっています。
ここでは、娘の名は●千世と書かれています。文中、「立花城にある置物」というのは少し分かりにくいかもしれませんが、立花城に置かれている武具や兵糧のことと思われます。立花家の家督だけでなく、立花城の城主という地位も娘に譲っていたことが分かります。つまり、女性もこの時代、家督を継ぐことができたのです。
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