【戦国武将に学ぶ】宇喜多直家~「下克上の連鎖」で国持ち大名に~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

戦国時代を代表するキーワードに「下克上」がありますが、下克上による戦国大名化の典型例といわれているのが宇喜多直家です。どのような下克上が行われたのか、具体的に見ていくことにしましょう。
謀殺でのし上がる
備前国(岡山県東部)の守護は赤松氏でした。その守護代だったのが浦上(うらがみ)氏で、宇喜多氏は浦上氏の一家臣にすぎませんでした。
ところが、守護代浦上村宗のとき、1521(大永元)年のことですが、主人である守護大名だった赤松義村を村宗が下克上によって倒し、戦国大名にのし上がりました。そして、その村宗の子宗景のとき、宗景の家臣だった宇喜多直家が、また、下克上によって浦上宗景を倒し、備前一国を支配する戦国大名になったのです。「下克上の連鎖」などともいわれています。
さて、その宇喜多氏ですが、出自について詳しいことは分かっていません。祖先は百済ないし新羅からの渡来氏族といわれ、流布している系図によりますと、児島高徳の子高秀が備前国宇喜多(現在岡山市)に居住し、初めて宇喜多を称したといいます。
宇喜多氏の名前が確かな古文書に見えるのは応仁・文明の乱の頃からで、ある程度、実像が分かるのは、直家の祖父にあたる能家(よしいえ)のあたりからで、すでにその頃には備前守護代の浦上村宗に仕えていたことが知られています。
では、宇喜多直家の下克上とはどのようなものだったのでしょうか。すでに見たように、浦上村宗の下克上によって、浦上氏が戦国大名になっていましたので、その村宗の子宗景に仕えていた宇喜多直家の地位も上昇していました。しかも、自然に上昇したというより、かなり悪辣(あくらつ)な手段を使って上昇していったという側面もありました。
実は、その頃、直家より上位に位置する重臣が2人いました。中山信正と島村観阿弥です。この内の中山信正は直家の妻の父、すなわち、直家にとってしゅうとにあたっていました。直家は1559(永禄2)年、この2人を謀殺し、家臣団のトップの座につきます。「備前軍記」では、これを主君浦上宗景の密命だったとしていますが、真相は分かりません。
その時点ではまだ浦上宗景の重臣筆頭という立場でしたが、1569(永禄12)年、主君宗景に公然と反旗を翻し、備前一国をほぼ平定することに成功します。
さらに翌1570(元亀元)年には、岡山城(岡山市)の城主だった金光宗高(かなみつ・むねたか)をやはり謀殺。城を奪い、改修して岡山城に居城を移し、そこを本拠として、さらに領土拡張の戦いを進めています。
確かな戦略眼も
直家の場合、謀略的手段によってのし上がっていっただけでなく、確かな戦略眼を持っていた点が指摘されます。誰と結び、誰と戦うかを常に考え、そのための情報収集活動を進めていました。
その頃、備前の隣国備中(岡山県西部)を支配していたのは三村元親でした。直家はその三村元親と戦うため、備後(広島県東部)まで勢力を伸ばしていた毛利輝元と手を結んでいるのです。いわゆる「遠交近攻同盟」で、遠く離れた同士の宇喜多・毛利が手を結び、間に挟まれた形の三村を討つというパターンで、そのもくろみ通り、直家は1575(天正3)年に三村元親を討ち、領国を備中だけでなく、さらに美作(岡山県北部)にまで拡大しました。
しかし、直家の成長・拡大もそこまででした。ちょうどその頃、織田信長の勢力が播磨(兵庫県)から備前に及んできたのです。結局、直家はその圧力に屈し、織田方となるわけですが、毛利輝元との戦いの第一線に立たされる中、1581(天正9)年に岡山城で亡くなっています。この直家の子が秀家で、豊臣秀吉に優遇され、五大老にまでなるのです。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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