【戦国武将に学ぶ】宇喜多秀家~豊臣家「期待の星」、秀吉の死で暗転〜
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

宇喜多秀家は1572(元亀3)年、備前(岡山県南東部)を拠点に勢力を伸ばしていた宇喜多直家の子として生まれています。直家ははじめ、織田信長に抵抗していましたが、信長の家臣として、羽柴秀吉が「中国方面軍司令官」となって乗り込んでしばらくすると秀吉に従属しました。
ところが、秀吉が毛利輝元と対戦中の1582(天正10)年正月、直家が亡くなり、家督を子の秀家が継ぐことになります。秀家はまだ、元服前の11歳でした。
27歳で「大老」に
このとき、直家の弟で、秀家にとって叔父にあたる宇喜多忠家が1万の軍勢を率いて、備中高松城攻めに加わっていました。戦後の論功行賞で備中半国が加えられ、それまでの所領と合わせ、備前・美作と備中・播磨の一部を領する大勢力となりました。
宇喜多家は1583(天正11)年の賤ケ岳の戦い、それに続く小牧・長久手の戦い、四国攻めの秀吉軍に家臣を送り込み、秀吉の天下統一の戦いの一翼を担います。四国攻めのあった1585年には、元服にあたり、秀吉から「秀」の一字を与えられ、秀家と名乗ることになりました。2年後の1587年、九州攻めのとき、16歳で初陣を果たし、従三位・参議となっています。
しかも、その翌年には、秀吉の養女・豪(前田利家の娘)を娶(めと)ります。豊臣・前田両家と姻戚関係を結ぶことになり、豊臣政権で重要な地位を占めることになりました。
それに続く秀吉の小田原攻め、文禄・慶長の役にも出陣し、文禄の役のときには、秀吉の明征服後の政権構想を示した25カ条の覚書で、秀家を日本の関白にするという案も記されています。肉親の少ない秀吉にとって、自分の養女と結婚した秀家は一族の期待の星の一人だったのでしょう。そのためか、1598(慶長3)年には、27歳の若さで「五大老」の一人に加えられています。もちろん、一番若い大老ということになります。
また、秀家は自分の領国内でも見るべき成果を上げていました。岡山城下町の整備、城下を流れる旭川の改修工事、さらには児島湾の堤防工事と新田開発です。領主としても一人前だったといえると思います。
関ケ原で敗戦、八丈島へ
ところが、それも秀吉の“引き”があったからでした。秀吉の死後、秀家の人生は違った方向に進んでしまいます。秀吉という後ろ盾がなくなったことで、秀家の真価が問われるようになったといってよいのかもしれません。
1599(慶長4)年末から翌年にかけて、お家騒動が持ち上がっています。これを「宇喜多騒動」と呼んでいますが、譜代の家臣で、しかも重臣だった戸川達安(みちやす)や岡家利らが宇喜多家を飛び出してしまったのです。重臣間の争いが発端だったということですが、それを抑え切れなかった秀家のリーダーシップのなさが原因といってよいと思います。
そして、家中がゴタゴタしている最中に起きたのが1600年の関ケ原の戦いです。秀家は石高に見合う1万7000の軍勢を率いましたが、譜代の重臣たちが抜けた後、浪人たちの寄せ集めの軍勢などといわれ、結果はご承知の通り、秀家ら西軍の敗北で終わります。
秀家は薩摩まで逃げ、島津家にかくまわれますが、島津側もいつまでも潜伏生活を許すわけにもいかず、1603年、家康側へ引き渡されます。島津家と豪姫の実家・前田家の嘆願によって死罪は免れ、駿河の久能山に幽閉後、子息らとともに八丈島へ送られ、そこで亡くなりました。
数々の戦場で活躍し、領主としても成果を上げた秀家。結果的には、秀吉にかわいがられたことがかえって、あだとなってしまった人生といっていいのかもしれません。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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