出て行った父、暴力振るった母…憎い「毒親」でも葬儀はすべきか
文句言う最後の機会にも
弔いの仕組みには「同時性」があります。弔えば、こちらは「弔った人」になり、弔われた故人が存在することになります。一方、弔わなければ、こちらは「弔わなかった人」になって、弔われない故人が存在することになります。
「弔らわれた人と弔われなかった人、どちらが安心な状態ですか。そして、弔った人と弔わなかった人、どちらが安心ですか」。このような問いを立てれば、「弔ったから安心する」のではなく、「弔っていることそのものが、弔われた人を生み出す」という同時性が分かると思います。弔う人になるのか、弔わない人になるのか。自身で判断をしなければなりません。
葬儀という別れの場に行かなければ、最後に文句を言うこともできません。憎しみがあるなら、憎しみのままに送り出しても構わないのです。その気持ちが、いつか収まるかもしれませんし、たとえ収まらなくても、「文句を言う機会を逃した」と後悔することはなくなります。そして、法事は悪行を積んだ親に対して、善行で対抗する儀式として執り行えばいいのです。親子の関係が「愛情」と「仲良し」だけで済むほど、世界は単純にできていないのですから。
「家族なのだから、親なのだから、愛さなければいけない」。そうした思い込みが心を不自由にしているのかもしれません。もちろん、家族が皆、仲良く愛し合っていれば幸せでしょうけれど、そうではない中で生きていかなければならない人も多くいます。
親は大抵の場合、子どもより先に旅立ちます。最後の別れに文句を言おうが、愛情を持って送り出そうが、葬儀に立ち会ったのなら、「親を見送った子ども」になるのですから、立派なものです。心の中でどのように思っていたとしても、形が成されれば上等なのですから、弔いは愛憎を越えて行えるものだと思います。
(佐藤葬祭社長 佐藤信顕)

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