【戦国武将に学ぶ】丹羽長秀~秀吉の力量認めて協力、123万石の大大名へ~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

豊臣秀吉がまだ木下藤吉郎といっていたとき、名字を木下から「羽柴」に変えたのは、織田家の2人の先輩、丹羽長秀と柴田勝家から一字ずつもらったからといわれています。本来なら、柴田勝家の方が年長ですし、信長に重く用いられていましたので、柴の字を上に持ってくるところでしょうが、なぜ、羽柴としたのかは分かっていません。
その丹羽長秀は1535(天文4)年、丹羽長政の子として生まれています。父長政は尾張守護の斯波(しば)氏に仕えていましたが、長秀が生まれた頃は、織田信秀の家臣でした。長秀は1550年、16歳で、1歳年上の信長に仕え、その後、信長のほとんどの戦いに従軍し、やがて、柴田勝家、佐久間信盛らと並ぶ重臣の列に加えられています。
安土築城の最高責任者に
1571(元亀2)年には、長秀は近江の要衝佐和山城(滋賀県彦根市)を任されていますが、この頃、横山城(同県長浜市)に入った羽柴秀吉とともに、浅井長政の小谷城(同市)攻めで共同歩調をとっています。
おそらく、この共同歩調をとる間に、長秀は秀吉の非凡さを認め、秀吉の力量を再認識したのではないかと思われます。この後、秀吉と勝家が対立する状況になったとき、長秀が常に秀吉サイドで行動することになる原点は、この頃から培われたのではないかと考えられます。
ただ、どうしたわけか、勝家が北陸方面軍司令官、秀吉が中国方面軍司令官、明智光秀が近畿方面軍司令官といった方面軍を任されていたのに、長秀は方面軍のトップとはなっていません。信長は適材適所の人事を行ったことで知られていますので、長秀には、一軍を率いさせるのではなく、別な仕事を与えていたと考えることもできます。
その具体例が、1576(天正4)年から始まる安土城(滋賀県近江八幡市)の普請惣奉行(そうぶぎょう)、すなわち築城の最高責任者です。長秀は軍団長にはなりませんでしたが、信長の近くで、大事な役を務めていたことになります。
清洲会議で秀吉案に賛同
さて、その長秀にとって大きな転機となったのが、1582年6月2日の本能寺の変です。このとき、長秀は、信長の三男信孝を総大将とする長宗我部攻めのため、四国に渡海すべく大坂にいました。そのため、信孝を擁し、その軍勢で明智光秀討伐に向かうことも可能でしたが、それはしていません。できなかったというのが実際のところかもしれません。
結局、6月12日、摂津富田(とんだ)(大阪府高槻市)まで戻ってきた秀吉軍に合流することになり、13日の山崎(京都府大山崎町)の戦いでは、秀吉軍の一員として働くことになりました。この時点で、秀吉と長秀の力関係は完全に逆転しています。
そのことを端的に示しているのが6月27日、尾張清洲城(愛知県清須市)で開かれた清洲会議です。これは、織田家の家督を誰にするかと、信長・信忠の遺領をどう分けるかの会議で、集まったのは、勝家、長秀、秀吉と池田恒興の4人といわれています。この会議で、長秀は秀吉の提案、すなわち、信忠の子三法師を家督とする案に賛成しています。
そして、翌年、秀吉が勝家と戦った賤ケ岳の戦いでも、長秀は秀吉に味方をしています。その結果、長秀には勝家の遺領とその居城だった北庄城が与えられ、石高合計は123万石となっています。
自分より若く、しかも途中から信長家臣となった秀吉の力量を認め、ライバルとはせず、協力してつかんだ成果といっていいでしょう。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
コメント