オトナンサー|オトナの教養エンタメバラエティー

「友達がいなくても楽しく生きられる」は本当? 「不要論」「必要論」から見えた人間関係の“コスパ化”

「友達」の定義は難しい?

 ここで少しばかり検討が必要なのは、「友達」「友人」のそもそもの定義です。夫婦のように契約関係にあるものではなく、恋人のように「付き合う」ことを合意するものでもないため、非常に線引きが難しいのです。ただの「知り合い」「知人」とどう違うのかと問われると、本人の主観でしかないようにも思えてきます。自分は「友達」と捉えていても、相手が同様に考えているとは限らないからです。

 どちらにしても、ウォールディンガーとシュルツが「重要なのは人間関係の質」と述べている通り、周囲の人々の定義などよりも、「心が通っているかどうか」「活力をもらえているか」などといった実利の有無こそが大切だといえます。

 人を不愉快な気分にさせたり、約束を守らず、うそを吐いたりして迷惑を掛けたりする友達を「毒友」と呼ぶようですが、形だけの人間関係にこだわっていると、「毒友でもいないよりはまし」などと本末転倒なことになるでしょう。

 そうすると、仮に定期的に会う友達はいなかったとしても、たまに会う知り合いやジムのインストラクター、なじみの飲食店の店主といったような浅い付き合いによって、日々の「人間関係の質」が担保されているのであれば、さほど問題はないのかもしれません。

 結論的には、友達の数や必要性は「人による」となりますが、やはり問題なのは、先述の「自分が望む以上に孤立している人」です。しかも孤独感は、極めて個人的なものなので、家族や友人に恵まれていても強い孤独を感じる人もいますし、常にいろんな土地を渡り歩いているような独り者にもかかわらず、まったく孤独を感じない人もいます。

 また、友情という手あかの付いた言葉も、この問題の正確な理解を妨げかねません。友情という概念はもともと明治期に海外から輸入されたものです。それが文学などを通じて一般にも定着し、理想化された「親友」、「魂の友(ソウルメート)」に発展しました。それ以前で近い言葉は「義兄弟」ですが、これは現在の友達というものとは異なります。

 いずれにしても、誰もが目指すべき模範となる友達関係というものは存在しませんし、何が「友達」を意味するのかも自明ではありません。ただし、「人間関係の質」が幸福の主要な因子であり、健康にも大きな影響を与えることもまた事実のようです。

 最近よく目にするのは、人間関係を資産運用と同じくポートフォリオを作って、どのような投資をしたら利益を得られるか、という考え方です。これほどまでに人間関係がコスパ、タイパ(時間対効果。正式名称はタイムパフォーマンス)感覚でコントロールすることの重要性が説かれ、自己啓発の手段として先鋭化している時代はないのかもしれません。

【参考文献】
(※1)『THE LONELY CENTURY なぜ私たちは「孤独」なのか』(藤原朝子訳、ダイヤモンド社)
(※2)Julianne Holt-Lunstad,Timothy B.Smith,J.Bradley Layton“Social Relationships and Mortality Risk:A Meta-analytic Review”July 27,2010/PLOSMEDICINE
(※3)『グッド・ライフ 幸せになるのに、遅すぎることはない』(児島修訳、辰巳出版)
(※4)橋田壽賀子、友達は「ほんとに欲しくない」 断言するワケ/2020年2月8日/AERA dot.

(評論家、著述家 真鍋厚)

1 2

真鍋厚(まなべ・あつし)

評論家・著述家

1979年、奈良県生まれ。大阪芸術大学大学院修士課程修了。出版社に勤める傍ら評論活動を展開。著書に「テロリスト・ワールド」(現代書館)、「不寛容という不安」(彩流社)、「山本太郎とN国党 SNSが変える民主主義」(光文社新書)。

コメント