【戦国武将に学ぶ】北条氏政~秀吉に抵抗し続けた「関東の王」のプライド~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。
北条早雲(伊勢宗瑞=いせ・そうずい)に始まる戦国大名・北条氏の4代目が氏政です。従来、1538(天文7)年の生まれとされていましたが、最近の研究で、1539年生まれに訂正されています。3代目・氏康の次男として生まれ、長男が早逝したため家督を継いでいます。
「暗愚な大将」は後世の評価
名君といわれた父・氏康に比べ、これまで、氏政の評価は極端に悪かったように思われます。それは、いくつかのエピソードからもうかがわれ、一番有名なのが「汁かけ飯」のエピソードでしょう。
これは、1656(明暦2)年刊行の「武者物語」という本に出てくる話で、陣中で食事の際に、氏政が汁かけ飯に汁をかけ足したのをみた氏康が「毎日の食事に汁をかける塩梅(あんばい)も分からないようでは、人の心を推し量るのも無理だ。北条の家は私の代で滅びるだろう」と嘆いたという話です。
また、氏政が刈り取ったばかりの麦を見て、「これをすぐ食べたい」と言ったという話を聞いた武田信玄が「氏政は刈り取った麦がどのようにして食材になるかを知らないようだ」とあざ笑ったというエピソードも「甲陽軍鑑」に見えます。
こうしたエピソードから、「氏政は暗愚な大将」といったイメージが出来上がってしまったようです。ただ、こうした評価は結局、氏政が北条氏を滅ぼす結果になったことからの後づけではないかと思われます。実際の氏政とは、どのような武将だったのでしょうか。本当に暗愚だったのでしょうか。
内憂外患乗り切るも、秀吉の力見誤る
実は、氏政が家督を継いだ頃、北条領国は飢饉(ききん)に見舞われており、越後の上杉謙信に攻め込まれてもいました。この「内憂外患」を乗り切っていますので、決して暗愚だったわけではないことは明らかです。
また、上杉謙信や武田信玄といった戦国を代表する武将と、時に戦い、時に同盟を結んでいますので、まさに、謙信・信玄と肩を並べていたといっても過言ではありません。しかも、謙信・信玄亡き後は、力をつけてきた織田信長とも手を結び、1582(天正10)年の織田軍による武田攻めにあたっては織田方として動いていました。
その頃にはすでに、家督を子の氏直に譲っていましたが、権力の座から離れてしまったわけではなく、家中に隠然たる力を持っていました。そのことが、後、1590年の豊臣秀吉による小田原攻めのときに明確な形として現れることになります。
信長のときには信長の「天下布武」に協力していた氏政ですが、信長の後を受けて天下統一に突き進んだ秀吉には抵抗し続けます。その理由を書いた史料は残っていませんが、大きな理由の一つに、氏政のプライドというものがあったように思われます。よく「意固地になる」という言い方をしますが、単に意地を張ったわけではありません。
北条氏は「関八州国家」といわれる形で、関東に独立国を築いていました。まさに関東の王という存在で、今風にいえば地方分権の旗手だったわけです。秀吉の中央集権国家とは違う国家形態を築きつつありましたが、秀吉の実力を見損なったのが失敗でした。
1590年7月、小田原城を開城して氏政は切腹。当主の氏直は高野山に追放され、戦国大名としての北条氏は滅亡しました。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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