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「学校だけが生きる道じゃない」 いじめで不登校を経験したNPO副代表が今、訴えたいこと

「学校がすべてではない」と知る

 戸惑った母親から「学校の先生も『来てください』と言ってるけど、どうする」と言われ、図書室や保健室へ「登校」したこともあります。司書の先生も、保健の先生も優しい人でした。しかし、他の児童が「なんで、あの人いるんですか」と話す声が聞こえてきました。

「僕はここにいちゃいけないんだと思いました。学校に行かなきゃという気持ちはあるんです。でも起き上がれない。ある朝、布団の中で『校門見たくない! 絶対に行きたくない』と叫んでいました」

 体はすでに限界。「ぶっ倒れるような疲れ」から、パジャマを着たままご飯を食べて、テレビをボーッと見て、寝るだけの生活が続き、一歩も外に出られなくなりました。

 担任から「あなたの子育てが悪いから、不登校になった」と責められた母親も苦しみました。全国的に不登校が増え始めた時期、不登校の子を持つ親の会が、地元にもできていました。そこに両親が通い始めたことが転機となりました。

「ほかの当事者を知ることで『学校に行かなきゃいけない』『学校がすべて』という『学校信仰』に苦しんでいる人が多い、と分かったんだと思います」

 学校に行かないまま、ゆっくり休んでいいという態度を親が見せたことが救いとなりました。

「肩の力がふっと抜けた感じでした。近所の目は気になりましたが、それでも心と体を休ませることはできました」

 1990年秋、11歳のとき、父親の転勤で茨城県つくば市へ。不登校は続きましたが、少しずつ外に出られるようになりました。その頃、一冊の本に出会います。いじめで不登校になった子どもたちの体験談が書かれていました。

「こんなに苦しいのは、僕だけじゃないんだ」

 母親が買ってきた、フリースクール「東京シューレ」の本。学校ではない「居場所」が見つかったのです。

いじめ自殺事件で取材が殺到

 1991年秋、東京都北区にあるフリースクールに通い始めました。いつ来ても、いつ帰ってもいい。漫画を読んでもいいし、授業に参加してもいいし、ぼーっと何もしなくてもいい。その空気が須永さんをホッとさせましたが、何より良いことがありました。

「みんなが集まったとき、『あなたはどう思う?』と聞いてくれるんです。聞かれること自体はとても緊張するのですが、『自分の気持ちを言っていいんだ!』と驚きました。自分の考えを尊重してくれる。そこに大きな安心感がありました」

 文化祭の会場予約、夏合宿の旅行会社との交渉なども、子どもたち主体で運営するスクール。時には、いじめらしきことも起きますが、すぐにスタッフが間に入って、子ども同士の距離を置くなど気遣ってくれました。

 その頃、不登校やいじめ問題への社会的関心が高まっていました。特に、1994年11月に愛知県で起きたいじめ自殺事件以来、スクールに取材が殺到。須永さんもインタビューを受けました。

「いじめられたとき、どう考えていたのか。どうしてほしかったのか。問われて、自分の思いが言葉になっていきました」

 7年ほど通い、フリースクールでの授業分も出席扱いとなって中学を卒業。スクールがつくった「大学」で、いじめや不登校について研究し、さらに、スクール系列の出版社を立ち上げて、いじめや不登校関連の本を出版します。講演会にも呼ばれるようになり、「自分が役立つなら」と話し続けました。その中で、ある思いが芽生えます。

「自分の経験や思いを社会で生かしたい。いじめをなくしたい」

 小学4年の時、「消えたい」と思ってから見失っていた「自分の存在意義」を取り戻せたのかもしれません。

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