【戦国武将に学ぶ】島左近~関ケ原に名を残した「治部少に過ぎたるもの」~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

島左近といえば、石田三成の軍師として有名ですが、実像については不明なところが多く、謎に満ちた人物です。いつ、どこで生まれたのかも分かっていません。父親の名も不明です。出身地については、大和(奈良県)とする説、近江(滋賀県)とする説がありますが、どちらも決め手はありません。
秀吉も驚く「主君と同じ石高」
左近というのは通称です。官職の一つ、左近将監の略称だと思われますが、これもはっきりしていません。名乗り、すなわち諱(いみな、本名)についても諸説があり、勝猛(かつたけ)、清興(きよおき)、友之(ともゆき)といったところが知られています。最近、清興と署名した文書が発見されましたので、清興は確実といっていいでしょう。ただ、当時は、一生の間に何度も名乗りを変えている人がいますので、もしかしたら、勝猛や友之を名乗っていた時代があったのかもしれません。
履歴として、ある程度はっきりしているのは、三成に仕える前、大和の戦国大名筒井順慶に仕えていたという点です。単なる家臣ではなく、重臣であり、同じく重臣だった松倉右近とで、「右近左近」と並び称されていたといいます。
では、そんな左近がどうして三成に仕えることになったのでしょうか。契機となったのが、1584(天正12)年の筒井順慶の死です。順慶の死後、跡を継いだ養子の定次とは折りあいが悪く、筒井家を出奔しました。このような場合、当時は、左近のような名の知れた武将の再就職は簡単だったのですが、左近にはなかなか声がかからず、しばらく浪人しています。おそらく、筒井家で相当な高禄(こうろく)を得ていたからではないかと思います。
そんな左近に声を掛けたのが三成だったのです。三成はその頃4万石をもらっていましたが、その半分の2万石を与えて、左近を招いたといいます。それを聞いた豊臣秀吉が「君臣の禄相同じといふこと昔より聞きも伝えず。いかさまにも其志ならではよも汝(なんじ)には仕へじ」、つまり「主君と家臣の石高が同じとは、聞いたことがない」と、驚いたという話が、江戸中期の儒学者、湯浅常山の「常山紀談」に見え、広く知れ渡っています。
本当に4万石の半分を与えたかどうかは、確かな史料で裏付けることはできませんが、奈良興福寺の僧の日記「多聞院日記」によって、少なくとも1592(文禄元)年以前には、三成に仕えていたことはうかがえます。
なお、島左近というと、どうしても三成の軍師としての働きが注目されていますが、残された文書からすると、軍師というだけでなく、一人の重臣として、三成の領内支配にもタッチしていたことが分かってきました。領内の年貢徴収に関わる文書に、三成の重臣山田上野介、四岡帯刀とともに「島左近」の名前が出てくるからです。
負傷しながらも前線へ
でも、やはり、左近の名を高めたのは1600(慶長5)年の関ケ原の戦いでの働きでしょう。9月15日のこの日、左近は三成軍の先陣として、三成の本陣が置かれた笹尾山の前に陣取り、そこに東軍の黒田長政、細川忠興、加藤嘉明らの諸隊が攻めかかり、激しい戦いとなりました。
笹尾山には馬防柵(ばぼうさく)と竹矢来(たけやらい)が組まれていましたが、左近率いる石田勢は、柵と竹矢来の外に出て戦ったといわれています。敵の攻撃が弱いとみての作戦だったのですが、出たところを黒田勢が横から攻撃したため、石田勢は大混乱に陥り、左近自身も負傷してしまいました。
左近は手当てをして、再び柵外に出て戦いましたが、この2度目の突撃の後、左近の姿は見えなくなります。「治部少(じぶしょう、三成)に過ぎたるものが二つあり、島の左近と佐和山の城」とうたわれた左近の最期でした。生年不詳ですので、享年も不明です。謎多き人物ですが、関ケ原に名を残した武将の一人であることは、確かな事実です。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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