駄菓子の「駄」が意味するもの 「梅ジャム」高林さんの強さとバイタリティー
1960~70年代のお菓子やおもちゃ、キッズカルチャーなどの話題をテーマに取材、執筆活動を行う筆者が、昔懐かしい駄菓子の世界を紹介します。

筆者が子ども時代を過ごした昭和40~50年代はまだ、東京の町々に小さな駄菓子屋さんがたくさんあって、地域の小中学生のたまり場になっていた時代でした。筆者も暇さえあれば、友達と駄菓子屋さんに入り浸っていたクチで、当時の多種多様な駄菓子の記憶は子ども時代の思い出の、多くの部分を占めています。
ところで、この駄菓子という言葉、考えてみれば随分ひどい名称です。駄作、駄文、駄弁…というように「駄」は「値打ちがない」、つまり、「ダメ」の意。「駄菓子=ダメなお菓子」というわけです。どうして、こんな失礼な呼び名が使われるようになったのか、駄菓子誕生の経緯から考えてみたいと思います。
江戸時代は「上菓子」と「駄菓子」
諸説あるようですが、駄菓子という言葉が一般に使われるようになったのはおおむね、江戸時代からだといわれています。この時代は、幕府が一般庶民にぜいたくを禁じる「奢侈(しゃし)禁止令」が発令されていました。今でいう普通のお砂糖、いわゆる、「上白糖」は最上級の甘味料とされ、特権階級の人たちの口にしか入りません。
庶民が口にできる甘味といえば、まずは果物、そして、麦芽糖(でんぷんを糖化したもの)を使ったあめ玉や水あめ、そして、安い黒糖を使ったかりんとう、おこし(「雷おこし」など、加工した穀物をあめや蜜で固めたもの)などの素朴なお菓子類でした。こうしたことから、貴重品である上白糖を使ったお菓子を「上菓子」(今でいう高級和菓子)、それ以外の安いお菓子全般を「雑菓子」「一文菓子」「駄菓子」などと呼ぶようになりました。
つまり、駄菓子の「駄」はやはり、「上菓子」に比べれば「ダメ」という意味なのですが、それよりも「庶民の」というニュアンスが強かったのだと思います。江戸期に起源を持つ駄菓子は今では「郷土菓子」「民芸菓子」などとして売られることが多いようですが、例えば、水あめなどは「棒つき水あめ」「水あめクジ」などとして現在も駄菓子市場に流通していますし、黒糖を使った素朴な駄菓子としては「黒棒」(起源が不明で大正初期に誕生したともいわれていますが)などがあります。
これらのお菓子は、江戸駄菓子の名残を今に伝える商品といえるかもしれません。
「昭和駄菓子」と「焼け跡世代」

以上が言葉としての「駄菓子」のルーツですが、現在、私たちがイメージするところの駄菓子の大半は戦後に誕生したものです。敗戦直後の焼け野原から生まれてきたのが、戦後型の新しい「昭和の駄菓子」でした。
興味深いのは、この敗戦直後の状況も江戸時代と非常に似ていたこと。物資不足・食糧難によって、この時代も砂糖はぜいたく品として扱われ、「国家統制」による配給制が採られていました。すでに戦時中から、砂糖は軍部へ優先的にまわされ、「甘いものを自由に食べられるのは軍人だけ」などといわれていたそうですが、敗戦後はさらに供給が困難になっていきます。
お菓子どころか、日々の食事にも多くの人々が困窮するような状況で、手に入る限りの安価な食材と、砂糖の代わりとなるサッカリンやズルチンといった人工甘味料などを組み合わせて、何とか、工夫と試行錯誤を重ねて考案されたのがこの時代の駄菓子です。
当初はまだ、店の体裁を持つ駄菓子屋さんは少なかったので、こうした商品は主に、露店で商いをする紙芝居屋さんを媒介にして流通しました。この時期、戦争で職を失った人々の間で紙芝居屋の仕事が流行し、その数は急速に増えていきます。焼け跡の子どもたちにとって、紙芝居は大きな娯楽になっていたのでしょう。紙芝居屋さんたちが見物料のような形で販売していたのが、割り箸に付けた水あめや花丸せんべい(ソースせんべい)などの駄菓子でした。
これら初期の「昭和駄菓子」の象徴といえるのが、敗戦直後の1947年から販売されていた「梅ジャム」です。製造元の高林博文さんが惜しまれながら、梅ジャムの製造を終了したことが、2018年に大きなニュースになったのを覚えている人も多いでしょう。昭和駄菓子の代表的商品ですが、当初は花丸せんべいに塗って食べるものとして、紙芝居屋さんに納品されていました。
70年以上にわたって、たった1人で「梅ジャム」を製造し続けてきた高林さんは物資不足の中、何とか、子どものための安価なお菓子を作ろうと、梅干しとしては出荷できない傷のついた梅を安く仕入れ、あの独特の味わいの商品を開発しました。文字通り、「ないない尽くし」の困難な状況下で、個人の「苦肉の策」ともいえるアイデアと工夫によって、数世代にわたって親しまれる超ロングセラーが生まれたわけです。
駄菓子の「駄」には、高林さんのような、いわゆる、「焼け跡世代」の苦境をはね返す「強さ」や豊かな「バイタリティー」のような意味合いも込められている気がします。
(昭和レトロ系ライター 初見健一)
コメント