昭和の駄菓子屋を支えた「おばあちゃん」たち、その強さとバイタリティー
1960~70年代のお菓子やおもちゃ、キッズカルチャーなどの話題をテーマに取材、執筆活動を行う筆者が、昔懐かしい駄菓子の世界を紹介します。

昭和の時代を描いた漫画やドラマに駄菓子屋さんが登場すると、店主が「おばあちゃん」に設定されていることが多いと思います。この設定は現実に即したもので、実際、筆者が育った1970年代の渋谷区恵比寿かいわいには4軒の駄菓子屋さんがありましたが、2軒はおばあちゃんが1人で経営、ほかの2軒は老夫婦が店番をしていました。つまり、どの店にもおばあちゃんがいたことになります。
「茂子」だから「しげちゃん」「しげんち」
調べてみると、ほかのエリアも同様で、中には店名のない駄菓子屋さんが子どもたちから、「ばあちゃんち」などと呼ばれていたり、「キクちゃん」という店主であるおばあちゃんの名前(菊さん)がそのまま店名になっていたりするケースも多かったようです。そういえば、わが家の近所の駄菓子屋さんも「しげちゃん」とか「しげんち」と呼ばれていましたが、これもおそらく、店主であるおばあちゃんの名前が「茂子」だったからなのではないかと思います。
筆者世代の記憶の中では、駄菓子屋さんは当たり前のように「おばあちゃん」とセットになっているのですが、若い人たちは「なんで?」と思うかもしれません。筆者世代にも、どうして、駄菓子屋さんの店主にはおばあちゃん、あるいは高齢者夫婦が多かったのかはあまり知られていないようです。
初期の駄菓子屋の光景とは
戦後の駄菓子屋さんの最初の形態は終戦直後、焼け残った民家の玄関先で、その家の主婦があめなどの菓子を近所の子どもたちに売るというものでした。当時の民家の玄関の戸をガラガラと開ければ、そこには土間があります。その上がりかまちに、あめ玉が詰まった大きな猫瓶(かつての駄菓子屋さんで用いられた商品陳列用のガラス瓶)がポツンと一つ置かれている。これが初期の最もシンプルな駄菓子屋さんの光景だといわれています。
あめ玉などのお菓子は物資不足の中で、紙芝居屋さんが商っていた安価なお菓子の余りなどを仕入れたものだったようです。看板もないし、店とは呼べないような形態ですが、「あそこのうちであめを売っているぞ」という情報が近所の子どもたちの間で口コミで広まれば、自然に客は増えていきます。客が増えれば、扱う商品の種類も徐々に増えていき、玄関の土間いっぱいにさまざまな駄菓子が並ぶようになります。こうして、昭和の駄菓子屋さんの基本的な形が出来上がっていきました。
1980年代くらいまでの典型的な昭和の駄菓子屋さんの店内を思い出してみると、多くの店が玄関の広い土間に多少手を加え、そのスペースを店として利用していたことが分かります。終戦直後に始まった「土間の商売」はその後40年間ほども変わらぬ形で残っていたわけです。
お年寄りのバイタリティーに支えられ
では、店主に「おばあちゃん」が多かったのはなぜでしょうか。それは、終戦直後に自宅でほそぼそとあめを売り始めた人の多くが、当時の「戦争未亡人」だったからです。戦争で夫を亡くし、稼ぎ頭がいなくなったために、終戦後も生活苦と食糧難にあえぐ中で、少しでも暮らしの足しになるように考案されたのが、簡単に始められる駄菓子の商いでした。
もちろん、ほかに事情があった人も多かったでしょう。いずれにしろ、終戦直後の過酷な状況の中で、特に女性は仕事を見つけるのが極めて困難でした。そうした女性たちが暮らしを守るため、生きていくために、ある意味で「苦肉の策」として始めたのが駄菓子屋さんのルーツだったといえます。この戦争未亡人たちが高齢になっても、そのまま店を続けるケースも多かったようです。
もう一つは戦後復興が進んだ頃、隠居したお年寄り夫婦の間で、駄菓子屋さんが手軽な「副業」として流行したというパターンがあります。それほどの収入にはなりませんが、当時は多くの人が持ち家に住んでいたので賃料はゼロ、さらに、ベビーブームで子どもの数が非常に多かったので(1950年の時点で、15歳未満の子どもは総人口の35%!)、立地などの条件がよければ、引退後の“お小遣い稼ぎ”としては十分過ぎるほどの実入りがあったようです。
こうした歴史を見ると、昭和の駄菓子屋さんが戦争の悲しい歴史とその中で生き抜いた女性たちの強さ、そして、復興を支えてきたお年寄りたちのバイタリティーによって培われてきたことが分かります。
(昭和レトロ系ライター 初見健一)
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