日本が東京五輪「開催反対」から一転、メダルラッシュに熱狂した理由
新型コロナウイルス感染拡大の影響で、開催反対の声が根強かった東京五輪ですが、開幕後は多くの人が熱狂しました。その背景を探ります。

東京五輪が8月8日に閉幕します。今大会は予想以上に日本の金メダル獲得が相次いだこともあり、世の中は五輪フィーバー一色へと変わった印象があります。五輪開催直前の国際的な世論調査(イプソス調べ)によると、日本では78%が「開催すべきでない」と反対する立場でしたが、いざ開催されて、テレビや新聞がメダルラッシュを報じ始めると、重苦しいムードは「日本チャチャチャ」の声援に覆い尽くされた格好です。
国民的行事と個人の幸福が直結
かつて、評論家の山本七平氏はこのような変貌ぶりを「何かの最終的決定者は『人でなく』空気である」と評し、私たちは「『空気』に順応して判断し決断しているのであって、総合された客観情勢の論理的検討の下に判断を下して決断しているのでない」と分析してみせました(「空気の研究」文春文庫)。このような世間の空気に電撃的に反応する国民性のなせる技といえそうですが、どうもそれだけでは説明がつかない部分が残ります。
まず、背景要因の一つに「コロナ疲れ」が挙げられます。コロナ禍における、1年を超える長期間にわたる自粛生活やずさんな補償体制を含む度重なる政府の失政、それに伴う心理的なダメージの蓄積による倦怠(けんたい)感や無気力などのまん延です。この精神をじわじわとむしばんでいく停滞感を打破するには、五輪という世界的なイベントとそれがもたらす祝祭的な高揚が、タイミング的にうってつけのカンフル剤だったのです。しかも、即席で国民の連帯感も醸成してくれます。
その萌芽(ほうが)は実は意外なことに、例のバッシング騒動にすでに見受けられます。
それは、東京五輪開会式の音楽担当の一人だったミュージシャンの小山田圭吾さんが1990年代半ばに雑誌のインタビューで語った、障害者に対するいじめがネット上で拡散・大炎上し、担当を辞任する事態に発展した事件です。元お笑い芸人の小林賢太郎さんが過去のコントでホロコースト(ナチス・ドイツによるユダヤ人大虐殺)をネタにして、ユダヤ人人権団体から非難され、五輪開閉会式のショーディレクターを解任された事件も同じ系列に含まれるでしょう。
これらは一言でいえば、五輪フィーバーのいわば前哨戦に位置付けられる、体のよい「いけにえ」であり、公共の敵を罰するように国民総出でたたきまくることによって、感情的なつながりを回復しようとする試みであったのです。その証拠にこの時点ではもはや、開催の是非を論じるという雰囲気は希薄で、五輪開催に向けたプロセスの正当性や品位を問う段階になっており、多くのマスメディアも個人バッシングに加担して、五輪のスポンサーであることすら忘れているようでした。
コロナ禍のスケープゴートは五輪開催に固執する国際オリンピック委員会(IOC)や日本政府ではなく、いつの間にか、五輪の名を汚す「不道徳な関係者」へと矮小(わいしょう)化されたのです。それがむしろ、祝祭空間を切り開く、導火線の役割を果たしました。この2人を巡る突発的なスキャンダルとそのいきさつは結果的に、五輪を盛り上げる前夜祭のローストチキンとして消費され、共感の輪を形作るための感情的な触媒として機能したのです。
社会学者のジークムント・バウマンは、個人化した不安定な世界で共同性を紡ごうとする人々を「劇場の観客」になぞらえ、クロークルームに荷物を預けている間だけ持つというはかなさを表現するため、「クローク型共同体」と呼びました(「リキッド・モダニティ 液状化する社会」森田典正訳、大月書店)。強い感情を呼び起こす特別な出来事を介して、ささやかな解放感に浸ることが可能となるのです。それが「劇場にあつまる観客を、劇場の外にいるときとは比べものにならない均一な集団に変える」と言います。
「公演中、すべての目、全員の注目は舞台にそそがれる。喜びに悲しみ、笑いに沈黙、拍手喝采、称賛の叫び、驚きに息をのむ状況は、まるで台本に書きこまれ、指示されているかのように一斉におこる。しかし、最後の幕が降りると、観客たちはクロークから預けたものをうけとり、コートを着てそれぞれの日常の役割にもどり、数分後には、数時間まえにでてきた町の雑踏のなかへ消えていくのである」(前掲書)
加えて興味深いのは、日本における国民的行事はどうやら、「個人の幸福」に直結する感覚があるようなのです。1953年以来、5年ごとに継続実施している統計数理研究所の「日本人の国民性調査」によると、「日本と個人の幸福」に関する設問で、1978年以降、「日本がよくなることも、個人が幸福になることも同じである」という意見に賛成する人が40%以上を占め、最も多い回答になっているからです。
ちなみに直近の2013年では「個人が幸福になって、はじめて日本全体がよくなる」が30%、「日本がよくなって、はじめて個人が幸福になる」が25%、「日本がよくなることも、個人が幸福になることも同じである」が42%となっています。五輪フィーバーに伴う祝祭的な一体感によって、文字通り、国とイコールで結ばれた個人に国威発揚と相まった栄光が流れ込み、幸せな気分がもたらされるというわけです。
とはいえ、バウマンに従えば、「クローク型共同体はばらばらな個人の、共通の興味に訴える演目を上演し」「その間、人々の他の関心(かれらの統一でなく、分離の原因となる)は一時的に棚上げされ、後回しにされ、あるいは、完全に放棄される」ものの、そのような「劇場的見せ物」は、つかの間の共同体もどきを成立させるにすぎず、「演目がつくりだす共通の幻想は、公演の興奮がさめると雲散霧消する」ものでしかありません(前掲書)。
アスリートたちの活躍とメダル獲得数の波が終わった後、つまり、五輪フィーバーという魔法が解けてしまえば、私たちは再び元の「ばらばらな個人」にならざるを得ず、コロナ禍でより過酷さを増した弱肉強食の社会に戻るほかありません。そして、あの熾烈(しれつ)を極めたバッシングとお祭り騒ぎは瞬時に忘れ去られることでしょう。私たちはこの刹那的な離合集散の繰り返しから、永遠に逃れられない運命にあるのです。
(評論家、著述家 真鍋厚)
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