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「納豆」消費1位は水戸じゃなく盛岡! 福島が3位、なぜ東北で食べられる?

盛岡では、1000年前から食べていた?

 次に、盛岡と納豆の歴史について、岩手大学農学部応用生物食品研究室の塚本知玄教授に聞きました。

Q.盛岡で納豆が食べられるようになった経緯は。

塚本さん「約1000年前の『八幡太郎義家伝説』にさかのぼります。伝説によると『前九年の役』の際、家来が食糧としてわらに煮豆を入れて持ち歩いていたところ、偶然にも糸引き納豆になっていたというものです。その後、南部藩の時代は領内で米が取れない地域も多く、大豆の栽培が奨励されました。そのことで日本有数の大豆の産地となり、藩全体で自然と大豆の加工食品文化が育まれたと考えられます。

また、南部藩主の発祥地は三戸(さんのへ、現・青森県三戸町)です。三戸は昔、人と物が行き交う交通の要所として栄え、地元で収穫した大豆を使った納豆や豆腐などの大豆加工食品が造られ、水路や陸路で各地に広がっていきました。その歴史は盛岡に引き継がれました」

Q.近代に入り、納豆の製造方法はどのように進化したのでしょうか。

塚本さん「盛岡には、明治から昭和初期にかけて研究成果を遺(のこ)した2人の有名な研究者がいました。盛岡高等農林学校(後の岩手大学農学部)で教壇に立っていた村松舜祐教授と成瀬金太郎氏です。

村松教授は、それまで、発酵段階で品質にばらつきがあった納豆菌の菌種の中から、うま味成分であるアミノ酸を生み出す納豆菌を取り出すことに成功しました。成瀬氏は、その納豆菌の純粋培養に成功し、2人は国内における納豆の工業的製造の先駆者となりました」

Q.納豆は盛岡からどのように広まっていったのでしょうか。

塚本さん「村松教授の指導により、1887年創業で『花巻納豆』の名称で知られる大内商店や、1921年創業で『高農納豆』を造っている丸勘商店などが、安定しておいしい納豆の製造・販売を進めた結果、盛岡は近代納豆の発祥地となり、その製法は県外にまで広まりました。

また、三戸が交通の要所だったことから、鉄道を利用して納豆を配る行商の拠点にもなりました。三戸の太子食品(商品は『太子納豆』)は村松教授の指導を受けて品質の高い納豆を造り、東京・銀座の三越百貨店で『日本一の納豆』と評されました」

 盛岡市内の納豆の現状について、盛岡市商工観光部経済企画課商業振興係の担当者は「ご飯にかけて食べる以外に、そば麺や中華麺などと合わせて食べる方法で提供している店があるほか、納豆巻きを名物メニューとして提供しているお店もあります」と話しています。

水戸はコンテストで盛り返し図る

 続いて、水戸の現状について、水戸商工会議所振興部産業振興課の古山哲央さんに聞きました。同商議所は2018年から「納豆食べ方コンテスト」を開催しています。

Q.水戸が消費金額のトップから遠ざかっている理由は。

古山さん「盛岡や福島など他市の消費金額が、当市よりも伸びているのが要因だと思われます。なお、総務省の家計調査(2018年)によると、当市の納豆の消費金額は6352円と、2017年比で839円上がっており、決して『納豆離れ』が進んでいるとは捉えておりません」

Q.「納豆食べ方コンテスト」を開催している理由は。

古山さん「水戸のイメージである『納豆消費金額全国1位』を奪還するための施策の一つであり、納豆のブランド価値を高める狙いもあります。当市では従来、納豆の食べ方は『白飯にかけて食べる』というのが長年の定番でしたが、白米自体の消費が減少しており、納豆の消費も下がっていく懸念がありました。

また、当市がライバル視している福島市、盛岡市ではそれぞれ、『納豆汁』『納豆ラーメン』など、納豆ごはん以外の食べ方もあると聞いており、納豆の新たな食べ方を模索することで納豆の消費を増やせないかと考えました」

Q. 白米にかける以外で、納豆はどのように食べられていますか。

古山さん「近年、市内の飲食店では、『納豆チャーハン』『納豆オムレツ』を提供している店もあり、それを参考に家庭で調理する人もいると聞いています。水戸近辺では、納豆と切り干し大根を合わせて、しょうゆなどで漬け込んだ『そぼろ納豆』という加工食品もあります」

(オトナンサー編集部)

【写真】納豆のさまざまなレシピ

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