「若者のような高齢者」と「年寄りのような若者」…増えたらどうなる? 「消齢化社会」がもたらす“功罪”を考える
「消齢化」で解消する「エイジズム」
ただし、「消齢化」にもいい点がありそうです。
「高齢者は弱者である」「その能力は衰える一方である」といったものは単なる印象であり、実態とは異なるエイジズム(年齢差別)です。当たり前ですが、人によるのであって、年齢という属性だけでそう決めつけるのは(口に出したり、行動に移したりしなくても)、エイジズムといえます。
「若者は無知で未熟である」というのも同じです。あるいは、年齢だけでその人の能力を決めつけたり、役割や振る舞いを期待したりする、「らしさの強要」といったこともエイジズムといっていいでしょう。
「消齢化」で、年齢による考え方や価値観の差が小さくなり、年齢だけでは人を判断できないという意識が浸透すれば、このような決めつけはおのずと消えていくでしょうから、それは歓迎すべきです。年齢を根拠にして人を判断することはできず、人によるのであって、その人をよく把握しなければ評価はできないという健全な姿勢が広がるからです。例えば、消齢化が進んでいけば、「定年退職」という明らかな年齢差別への疑問が自然に湧いてくるでしょう。若いというだけで、「経験不足」「未熟」「世間知らず」と考えてしまうのはおかしいと気付く年配者も増えてくるはずです。
こうみてくると、「消齢化」によって生じる問題は次のように考えられます。消齢化によって、「差別」や「らしさの強要」などがなくなるのはいい。しかし、それと同時に「年相応」(の特徴や強み)までがなくなっていっていいのかどうか。幼稚な年寄りと老いた若者が似たような振る舞いをする、多様性が感じられない社会に向かっていってしまう可能性があるのではないかということです。
現代は「個の時代」「多様性の時代」であるとする言説がよくありますが、本当にその方向に向かっているのかどうかという問題でもあります。エイジズムは消えたが、年相応はしっかりと残っている――。そういう社会でなければ、「個の時代」「多様性の時代」とはいえないだろうと思います。
(NPO法人・老いの工学研究所 理事長 川口雅裕)



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