【戦国の女性に学ぶ】織田信長の妻帰蝶~謀反の動き、父に伝える?~
本能寺の変は知らず?
では、その後、帰蝶はどうなったのでしょうか。不思議なことに、この後、信長関係の各種史料に帰蝶のことが全く出てこないのです。離縁されたのか、死去したのかも分かりません。ただ、少なくとも1568(永禄11)年、信長が足利義昭を擁して上洛(じょうらく)する頃までは、帰蝶は信長のそばにいたと思われます。帰蝶のいとこの明智光秀が、信長との橋渡し役を務めていたことが確認されるからです。
信長と帰蝶との間には子は産まれなかったのですが、信長も後継者が必要と考え、1557(弘治3)年には、側室生駒氏に長男信忠を産ませています。
なお、最近、郷土史家の横山住雄氏がその著『織田信長の尾張時代』の中で、「快川和尚法語」を紹介し、彼女が1573(天正元)年12月25日に亡くなり、その1周忌法要が甲斐の恵林寺で営まれたとする新解釈を示しました。
これが事実であれば、帰蝶は本能寺の変が起きる前に生涯を終えたことになります。いとこである光秀が信長を倒す悲劇を知らずに済んだのは、「戦国」という時代に翻弄(ほんろう)されて生きた彼女にとって、せめてもの救いだったかもしれません。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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