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球団消滅へ、優勝懸けたダブルヘッダー、同率決戦…プロ野球記憶に残る「ラストゲーム4選」

【3】1994年10月8日、巨人対中日 同率決戦

 まだクライマックスシリーズがなかった1994年、セ・リーグ首位同士、巨人と中日の優勝決定戦が最後の130試合目となりました。

 10月8日、土曜日の午後6時、ナゴヤ球場で試合が始まりました。中日の監督は高木守道氏、巨人の監督は長嶋茂雄氏でした。テレビ局は2日前に急きょ生放送することを決定。報道陣も大勢詰めかけます。長嶋監督が報道陣に「国民的行事」と表現し、野球ファンではない人々まで巻き込みました。

 中日の先発は今中慎二投手、巨人先発は槙原寛己投手。中日は通常と同じ継投を選択しましたが、巨人は主力の先発投手を投入して中日打線を抑え込もうとしました。槙原投手の後に斎藤雅樹投手、桑田真澄投手と、シーズン中10勝以上を挙げた投手だけで継投。6対3で巨人が勝ち、日本シリーズに駒を進めました。

 この試合の魅力は、それまで起きたことのない、130試合目に同率首位のチームが直接対決して、その勝敗がシーズン全ての成績を決めるという、物語性にあったと考えられます。もちろんスター選手や、監督の人気など、登場人物の魅力も欠かせませんが、特別な試合であることが、人々の注目を集めた最大の要因でしょう。

【4】上原投手の涙

 後味の悪い「最終戦」もありました。1999年10月5日、首位とのゲーム差が開き、自力優勝のなくなった巨人対ヤクルトのカード最終戦。プロ野球の話題は選手個人のタイトル争いに移っていました。

 この試合で先発した上原浩治投手は、新人投手として20勝目が掛かっていました。ホームラン王争いは、巨人の松井秀喜選手(41本)と、ヤクルトのペタジーニ選手(42本)で争っていました。ヤクルトベンチはタイトル争いを重視し、松井選手を2打席連続で敬遠。巨人ベンチは上原投手の20勝目を優先したのか、ペタジーニ選手の打席で敬遠のサインを出しませんでしたが、上原投手は6回までの2打席を抑えていました。

 しかし7回裏、ペタジーニ選手が打席に入ると、巨人ベンチから敬遠の指示。上原投手は指示に従い、外角に大きく外した投球をして、四球を与えました。ペタジーニ選手が一塁に向かっている時、上原投手はマウンドを蹴り上げ、涙を拭いました。自身もタイトルへの挑戦をしていただけに、相手のタイトル挑戦を邪魔するような四球に、自分で納得がいかなかったのでしょう。

 ここまで、4つの「最終戦」を見てきました。今季のレギュラーシーズンは終了しましたが、クライマックスシリーズ、日本シリーズと、短期決戦では、シーズンと異なる采配や選手登用が見られるでしょう。細かな違いに注目すると、意外な発見ができるかもしれませんし、新たなドラマを目撃できるかもしれません。

(文/構成・オトナンサー編集部)

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江頭満正(えとう・みつまさ)

独立行政法人理化学研究所客員研究員、一般社団法人日本スポーツマンシップ協会理事

2000年、「クラフトマックス」代表取締役としてプロ野球携帯公式サイト事業を開始し、2002年、7球団と契約。2006年、事業を売却してスポーツ経営学研究者に。2009年から2021年3月まで尚美学園大学准教授。現在は、独立行政法人理化学研究所の客員研究員を務めるほか、東京都市大学非常勤講師、一般社団法人日本スポーツマンシップ協会理事、音楽フェス主催事業者らが設立した「野外ミュージックフェスコンソーシアム」協力者としても名を連ねている。

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