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スポーツ強豪校の体罰…なぜ、なくならない? 日本スポーツマンシップ協会理事が考える理由&対処法

スポーツ強豪校で起きた監督らによる体罰…。日本スポーツマンシップ協会理事の江頭満正さんが理由と対処法を解説してくれました。

なぜ体罰はなくならないのか…
なぜ体罰はなくならないのか…

 スポーツの強豪校、千葉・船橋市立船橋高校の男子バレーボール部監督の暴力事件、高校野球強豪校の監督ら謹慎処分など後を絶たない部活での暴力沙汰…。学校での体罰や不適切指導がなかなかなくなりません。

 日本スポーツマンシップ協会理事の江頭満正さんが、体罰や不適切な指導が続く理由や対処法について、解説してくれました。

試合とゲームの違い

 そもそも、日本ではスポーツに対する定義が理解されていません。例えば「選手」という呼び方は、武士の時代から現在でも使われています。当時、武家の男性は必ず武道の鍛錬を行っていました。その中から「試合」に出場する武士を選ばなくてはいけませんでした。そこで試合に出る武士を「選手(選ばれた人)」という呼び方になりました。スポーツでは、「PLAYER(プレーヤー)」と呼び、直訳すると「遊ぶ人」になります。

「試合」という言葉も同じ様な背景があります。武道は自身を守り、敵を殺傷するための技術を出します。そこに遊びや、楽しむ要素は存在しません。

 命がけの戦で、戦果をあげることが目的です。武道の稽古で「試合」は、言葉の通り“試し合い”です。実戦同様に真剣を使えば、稽古相手を傷つけてしまいます。試し合いですから、稽古相手に敬意を払い「礼」をするわけです。

 一方のスポーツは「GAME(ゲーム)」と言い、開始前に握手をしてゲームに必要不可欠な相手とのコミュニケーションを図っています。スポーツは格闘技を除いてゲームであり、オリンピックの名称にも必ずゲームという単語が入っています。

 スポーツの英動詞は「PLAY(プレー)」です。スポーツを行う人は「プレーヤー」です。現在この違いを理解し、実施しているスポーツ指導者がどの程度存在するでしょうか。遊びであるスポーツのゲームや練習で、コーチがプレーヤーに罰を与えること自体がおかしな話と言えると思います。

 武道において、師匠が練習生に体罰を与えることは、不十分な技量で戦場に出て命を落とさないために厳しい指導が必要でした。長時間の練習を行い、心身共に疲れ果てていても、戦い続けられるように、戦死しないように、過酷な鍛錬をする必要があったのです。

原因は指導者の「勝利至上主義」と生徒の「ほれこみ」

 試合とゲーム、選手とプレーヤーの違いを説明しましたが、ここからは“体育”と“スポーツ”の違いについて説明をします。城西国際大学で紀要された大塚正美教授の論文「体育の歴史と役割」では、体育は明治政府が、富国強兵のために兵士育成としての役割を担った経緯から始まっていると記されています。

 武士と同様に兵士育成が重要な役割であった体育には、強制的で楽しみの少ない傾向がありました。明治から1945年の終戦までの体育は、指導者の命令に絶対服従で、従わなければ体罰が科されていました。これも、戦場で自分の命を守り、敵を殺傷するために必要な教育だったのです。

 終戦後、教育改革が行われましたが、体育の基本は変わらず、指導者は選手に対して体罰を科すことは日常でした。当時「体育」は体罰を伴うものでした。2011年にスポーツ基本法が制定され、2015年にスポーツ庁が誕生し、2018年に日本体育協会が、日本スポーツ協会に名称変更し、2020年には、国民の祝日である「体育の日」が「スポーツの日」に名称が変わりました。これらは兵士育成としての体育から、遊びとしてのスポーツへの変化を標榜したものです。

 身近な保健体育の教師に「体育とスポーツの違いについて」質問してみてください。スッキリ説明できる人は、体罰を行うようなことはないでしょう。

 2020年より学校教育法十一条で「体罰を加えることはできない」と定められました。しかし、高校部活動の現場ではまだ無くなっていません。特に強豪校に、その傾向が見られます。

 その背景には、体罰を受けた生徒が容認してきた経緯があります。「チームが勝利するために、マイナスの行動を取ったのは、自分自身であり叩かれるのは当然だ」という考えです。

 運動部では、チームメイトと濃密なコミュニケーションを行い、信頼し、ゲーム中にはアイコンタクトだけで、意思疎通ができる様になっています。

 これは心理学者のフロイトが唱える「集団心理」が当てはまる状態です。「体育・スポーツ哲学研究」に掲載された松田太希さんの著書「スポーツ集団における体罰温存の心的メカニズム―S. フロイトの集団心理学への着目から―」では、フロイトによれば、集団は成員(プレーヤー)から指導者に対する「ほれこみ」、成員(プレーヤー)同士の「同一視」というリビドー的結合によって形成・維持されていると述べています。

「ほれこみ」は、尊敬、憧れ、好意的感情などが含まれ、ほれこんだ指導者に叩かれて、「ありがとうございました」と礼を言う生徒の姿が確認されています。この体罰を受けた生徒が、「暴力」ではなく「愛情」だと解釈している実情が未だに体罰という行為が無くならない原因の一つだと考えられます。

 そして、指導者側の問題は、勝利至上主義であることです。指導者は多くの場合、ゲームの結果が悪ければ解任されます。高校はスポーツ強豪校として、入学希望者を増加させ収益を伸ばすことも視野に入れ、指導者を雇用しています。

 少子化が進む中、全国大会に出場すれば、入学希望者が増えるので、学校もゲームでの結果を指導者に要求します。指導者は解任されないために、勝利を追求することになります。生徒も勝利することはうれしい事ですから、指導者が勝利にこだわり過ぎていても、不満に思うことはありません。

 この様に、生徒側の「ほれこみ」、指導者側の「勝利至上主義」が体罰を一掃できない原因になっていると思います。

対処法は部活指導者の“評価基準”変更

 ここからは、スポーツマンシップ協会理事という立場から、考えられる対処法をお伝えしたいと思います。対策としては、部活指導者の評価基準を変えることです。プロスポーツや、日本代表は勝敗が重視される事に反論はありません。ですが大学までの学校スポーツは「教育」です。勝敗よりも、プレーヤーの育成を重視するのが本来の姿です。

 スポーツは1800年代の欧米で、純粋な教育ツールでした。世界各地に植民地を持つ欧州各国が、植民地統治を任せられる人材の育成に活用していました。スポーツで頑強な体を育み、リーダーシップ、チームメイトを信じること、目的に向かってさまざまな挑戦をすることなど、ゲームを通して教育していました。

 学校スポーツでは、生徒を座学では伝えにくい内容の教育を最重視すれば、勝利の為にプレーヤーを叩くコーチはいなくなるでしょう。暴力で統治することは簡単ですが、反対者を生み表面的な服従しかさせられない、悪い見本をコーチが示すわけにはいかないからです。

 フロイトの「ほれこみ」理論が正しければ、指導者の人選を変えることも不可欠です。「ほれこみ」を防止するためには、指導者にある過去の栄光を取り払うことが必要でしょう。

 元日本代表選手だった、オリンピック出場経験者、指導者として全国優勝の数などといった、輝かしい実績です。日本では、プレーヤー時代に良い成績を残した人物が、指導者になっているケースがよくあります。

 しかし欧米では、指導者は競技者として成功している必要がないと考えられています。今後、学校部活では、指導者専門家を登用し、育成力でプレーヤーと向き合う人材に変えるべきです。「ほれこみ」現象がなくなれば、体罰が起きた場合に部活内で秘密にされる事はなくなります。

 また指導者の独裁を阻止する制度も重要です。任期を2年として2期目への延長はプレーヤーの意見を確認し、最長任期を4年にする。アシスタントコーチは、主指導者の縁故採用をしない。学校運動部指導者資格を作る、などといった学校部活動の“内部ガバナンス”を維持できる仕組み作りが必要です。

 学校部活動は、学校教育法などで制度の整備が可能です。運動部活被害者を減らすために、制度改革を積極的に行ってほしいものです。

(日本スポーツマンシップ協会理事、東京都市大学非常勤講師 江頭満正)

(オトナンサー編集部)

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江頭満正(えとう・みつまさ)

独立行政法人理化学研究所客員研究員、一般社団法人日本スポーツマンシップ協会理事

2000年、「クラフトマックス」代表取締役としてプロ野球携帯公式サイト事業を開始し、2002年、7球団と契約。2006年、事業を売却してスポーツ経営学研究者に。2009年から2021年3月まで尚美学園大学准教授。現在は、独立行政法人理化学研究所の客員研究員を務めるほか、東京都市大学非常勤講師、一般社団法人日本スポーツマンシップ協会理事、音楽フェス主催事業者らが設立した「野外ミュージックフェスコンソーシアム」協力者としても名を連ねている。

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