「英断」か? 「夢奪う」行為か? 小学生柔道の全国大会廃止、専門家の見解
全日本柔道連盟が、「行き過ぎた勝利至上主義が散見された」として、小学5、6年生対象の全国大会の廃止を発表しました。専門家の見解を聞きました。
全日本柔道連盟が3月18日、2004年から開催していた小学5、6年生対象の全国大会の廃止を発表しました。「行き過ぎた勝利至上主義」が散見されたことを廃止の一因としており、報道によると、重量級と軽量級で争う大会で、指導者が子どもに減量を強いたり、組み手争いに終始する試合があったりしたようです。ネット上では「素晴らしい決断」「ほかのスポーツも小学生は全国大会なしでいい」といった好意的な反応の一方、「全国大会を目指してきた子どもの夢を奪っていいの?」との声もあります。
今回の決定について、一般社団法人日本スポーツマンシップ協会理事の江頭満正さんに聞きました。
勝利至上主義、廃する英断
Q.全日本柔道連盟の判断について、率直な感想をお聞かせください。
江頭さん「賛成です。その理由は、学校スポーツを中心とする子どもたちのスポーツは教育の一環で、勝敗は二の次であるべきだからです。
『行き過ぎた勝利至上主義』を、なくすべきです。小学生に限らず、大学を含めた学校スポーツの管轄は『文部科学省』で、教育の一部です。部活による教師の過酷な労働条件が社会問題になっていますが、学校スポーツは学校教育の一環で、トラブルがあれば、保護者は学校の責任を追及します。『教育ツール』としてのスポーツであることを忘れてはなりません。これは、地域の教室や道場で子どもたちを指導している場合も、同様です。
イギリスで生まれたサッカーは、イギリスでの正式名称を『アソシエーション・フットボール』といいます。18世紀初頭までサッカーは暴力的で、何度も政府から禁止命令が出ていました。1848年に英国の主要な公立学校の代表が集まり、現在のサッカーに近いルールが作られます。
この際に、集団で協力し、チームワークを必要とする傾向が強くなりました。そして、暴力的なそれまでのサッカーと区別する意味もあり『アソシエーション・フットボール』という名称になったのです。その後、公立学校で教育の一環として行われるようになります。
18世紀のイギリスは、世界中に多くの植民地を保有していました。植民地に派遣する人材育成に、スポーツは適合していたという記録があります。1人の力ではなくチームで問題に取り組むこと、チームメートを信用すること、上司(監督)の指示に従うこと、体が鍛えられること、などの要素が含まれているからです。
一方、18世紀の日本では、体を鍛えることは、武術が上達することでした。武術は『戦』で敵を殺傷するための技能でした。道徳的な教育は『武士道』で行われ、体の鍛錬とは、やや区別されていました。ですが一部、『健全な精神は、健全な肉体に宿る』という概念も存在していました。
武術は、勝利至上主義でした。なぜなら、自分の命を掛けて戦うための技能だからです。敗戦は死に直結します。悪賢い手段を使ってでも、勝たなくてはなりません、また、師匠に叱責(しっせき)されても、暴言を吐かれても、殴られても、自分の命を守るために受け入れていました。
残念ですが日本では、敵を殺す技術を磨く『武術』と、レクリエーションの『スポーツ』が混ざってしまっているのが現状です。柔道をスポーツとして学校や地域で行っているのなら、それは教育目的であり、勝利至上主義に傾いてはならないのです」
Q.小学生の全国大会は、どういった点が問題なのでしょうか。
江頭さん「全国大会の存在によって、あらゆる意思決定について、勝利至上主義で行う人間が育つ危険性があります。人格形成の重要な年代に、『勝つことが一番大事だ』という価値観を刷り込むことは、本人のその後の意思決定に、大きな影響を与える危険性があるのです。
性格が形成される年齢に関する研究はいくつかありますが、両端を見ると、3歳から10歳となります。この期間に『勝つことが一番大事だ』と、スポーツ指導者と両親、友人から繰り返し言われ続ければ、本人の価値観に影響を与える可能性は高く、仕事でも、進路でも、友人関係でも、さまざまな意思決定の際に、『勝つことが一番大事だ』という基準で判断することが多くなると考えられます。
そうなれば、自己中心的で、他人の心を理解せず、悪賢い手段を多用する人間になるでしょう。スポーツを小さい頃から必死にやってきた結果、どんな場面でも勝利至上主義という人格になることは、スポーツマンシップとは正反対で、非スポーツマンシップ的な判断をする人を生む結果になります。
例えば将来、会社の人事部が『10歳以前からスポーツを真剣にやってきた人に、いい人はいない』と敬遠する時代が来ても、おかしくありません」
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