高層マンションも人ごとでない! 東京にとって九州が“対岸の水害”ではない理由
世の中のさまざまな事象のリスクや、人々の「心配事」について、心理学者であり、防災にも詳しい筆者が解き明かしていきます。

利根川は関東地方の半分以上を流域とし、太平洋に注ぐ日本最大級の河川です。しかし、かつて、利根川の河口が太平洋ではなく、東京湾にあったことはあまり知られていません。
徳川家康が江戸にやってきたとき、「そこはひなびた漁村だった」というのは、江戸を発展させた家康の功績を“盛る”ために値引きしまくった表現だそうですが、江戸幕府が関東の発展のために数々の巨大土木工事を行ったのは事実です。
その中でも、とびきりのビッグプロジェクトが江戸初期に行われた「利根川東遷事業」です。大河の本流を太平洋に向けたことにより、江戸の洪水リスクは大幅に低下し、河口付近の広大な湿地帯が“使える”土地に変わり、当時の物流の主力であった水運も格段に便利になりました。これにより、後に当時、世界唯一の百万都市となる江戸の基盤が出来上がります。
アップデートされ続ける治水事業

「水が高いところから低いところへ流れる」というのは、孟子が人間の性質を指して言った言葉とされますが、語源の「水」も文字通りの性質を持っています。利根川の河口がもともと、東京湾にあったのは、そこにそういう勾配があったため、そう流れるのが自然だったからです。現在の利根川は人間が造った「溝」や「壁」で無理やり流れを変えられているわけですから、そこにはいつも、元に戻ろうとする力が働いています。
利根川東遷によって、江戸では確かに中小の洪水は起きにくくなりました。しかし、上流で記録的な豪雨が降ると利根川は氾濫し、水は江戸の方に流れてきます。このタイプの洪水は江戸時代に何度か起きていますが、人間にとっては「洪水」でも、利根川にとっては「元の自然の姿に戻っただけ」だともいえるのです。
時代は明治に変わり、1910年にも、利根川が元に戻るタイプの大洪水が起きています。これを受けて、当時の人々は東京を洪水から守るため、幅約500メートル、全長およそ22キロメートルに及ぶ巨大人工河川「荒川放水路」を建設します。金八先生がジョギング中のお姉さんとたわむれていた、あの雄大な川が荒川放水路です。あの川が重機がない時代に造られた人工河川なんて、ビックリですよね。
余談ですが、現在一般に「荒川」と呼ばれる荒川放水路ができる前は、今の「隅田川」が「荒川」と呼ばれていました。その証拠に、荒川区は隅田川に接していますが、今の荒川には接していません。当時、接していた川の名前が区の名前に残ったんですね。
さて、昭和に入り、1947年の「カスリーン台風」のときにも利根川の流れは元に戻っています。ただし、このときは荒川放水路のおかげで、東京都心を含む荒川右岸は洪水から守られました。東京では、このカスリーン台風を最後に甚大な被害を出す大洪水は起こっていません。また、この後も、東京を洪水から守るためのさまざまな土木工事が行われ、家康の時代から始まった治水事業は常にアップデートを繰り返しています。
と書くと、なんだか安心してしまいそうですが、実際はそれほど安心していられる状況ではないのかもしれません。ここ数年の雨の降り方は、昭和のそれとは明らかに違います。自然がひとたび本気で牙をむけば、たかだか数百年程度の記録に基づいた人間ごときの不完全な想定など、軽く破られてしまうことは、ここ最近の災害で嫌というほど思い知らされています。実際、2019年の台風19号では、荒川放水路は氾濫寸前まで追い込まれています。
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