「初詣」は明治時代に“創られた伝統”だった 国民的行事に発展した経緯とは?
初詣が国民的な行事となった歴史的な経緯について、評論家が歴史学者の研究を基に紹介します。
新年になると、多くの人が神社や寺に参拝し、1年の幸せを祈願します。こうした習慣は「初詣」と呼ばれており、古くからある伝統文化だと認識している人は多いと思います。
しかし、現在のように、人々が正月に一斉に神社や寺に参拝する様式が確立されたのは、明治時代以降であることが歴史学者の研究によって、明らかになっています。今回は、さまざまな社会問題を論じてきた評論家の真鍋厚さんが、歴史学者の研究を基に、初詣が国民的な行事に発展した経緯を紹介します。
鉄道の整備が一因
世界規模の宗教行事といわれることもある日本の「初詣」。警察庁が2009年に発表したデータによると、実に1億人近い人出があったことが分かっています(※1)。まさに国民的行事と言っても過言ではないでしょう。
しかし、その成り立ちはあまり知られていません。例えば、現在のように、人々が元日に一斉に神社に参拝するスタイルは、明治の後半にでき上がったもので、国の政策や鉄道会社の取り組みがかなり影響していたことなどです。
後で説明しますが、明治以前の東京や京都などの地域では、元日は外出せずに家で神様を迎えることが一般的でした。同時に「恵方詣り(恵方参り)」と呼ばれる、その年に「恵方」(自宅から見て縁起の良い方角)にある社寺に参拝することも、広く行われていました。
具体的に見ていきましょう。
日本近代史(天皇制度・文化史)が専門の歴史学者である高木博志氏によると、現在のような初詣のスタイルが成立したのは、明治20年代(1887年~1896年)だといいます(※2)。
これには明治維新に伴う国民国家の形成が深く関係しています。高木氏は、それまで庶民の慣習にはなかった宮中(皇室)での新年拝賀が、官公庁への拝賀、学校教育の新年節(1月1日)を通じて浸透したことが背景にあるとしています。
このことは、明治政府が天皇を頂点とする新しい国家体制を整備し、寺院(仏教)よりも神社(神道)を重視する政策を徹底したことと切り離せません。数ある神社の中でも、いわゆる国営神社だった「官国幣社」(戦後に廃止)の存在は大きかったといえます。
高木氏は、明治期に起こったこれらの一連の動きについて、「つまるところ、官が上から、宮中儀礼と連動させて、正月元日に特別の意味を持たせたかったからといえよう」と述べています(※2)。
江戸時代の庶民にとって、「寝正月」という言葉が象徴的なように、元日は家で静かに過ごすものでした。地方はさらに多様でした。
交通網の発達という視点から初詣の出現を指摘したのは、鉄道と社寺参詣の関わりを研究している歴史学者の平山昇氏です。鉄道の積極的な乗客吸引策が参詣客数だけでなく、社寺参詣のあり方そのものを変えたといいます(※3)。
平山氏も、神奈川県の川崎大師の例を挙げながら、縁日にも恵方にも関係なく、毎年元日に参詣することが習慣化し始めたのが明治20年代だと述べています。そして、これは都市から郊外へと延びる鉄道が整備されたことによって誕生した「『近代的』な参詣行事」だと断言しました。
平山氏によると、鉄道会社は収益を上げるために宣伝を盛んに打ち出し、列車の本数を増やすなどして、当時まだ非日常的な乗り物だった列車に、ハレの日の行楽をうまく組み合わせたということです。これが見事に起爆剤になったのです。
このため、平山氏は、高木氏とやや異なり、当初はナショナリズムとは別の文脈で、庶民の娯楽行事として初詣が生まれたと考えます。それが大正期以降に知識人にも波及し、彼らによってナショナリズムの文脈で捉え直されるようになり、その言説が社会に還流して娯楽とナショナリズムの二面性を持つ行事に変化したというのです(※4)。
いずれにしても重要なのは、高木氏、平山氏ともに初詣が明治の後半に「創られた伝統」だったと認識していることです。これは余談ですが、現在の神社に置かれているおみくじも明治以前は存在しませんでした。初詣と同様、明治の後半に新たに創られたのです。
それでは、江戸時代の正月はどのようなものだったのでしょうか。現在の東京や京都などの地域では、元日は恵方に棚を作って、「年神様」(歳徳神)を迎えることが一般的で、家にこもっていました。
「年神様」とは、新しい年の福徳を持って訪れる神様のことで、「正月様」とも呼ばれ、陰陽道的な側面があります。民俗学者の折口信夫が提唱する「来訪する神(まれびと)」の一種とされています(※5)。
人々の活動が始まるのは元日の翌日以降で、書き初めやあいさつ回りなどが行われていました。「恵方詣り」として、その年の「恵方」にある社寺に参拝することが多く、これが初詣の原型といわれています。ただし、恵方は毎年変わるため、いつも同じ社寺に参拝するわけではありません。
地方については、もっと複雑なようです。先述の高木氏は、多くの民俗学資料から「村の構成員全体が鎮守社へ参拝する村から、年男のみ参拝する村、あるいは家で静かに歳徳神を迎える村まで、正月のありようは多様だった」と結論付けています(※2)。
簡単にまとめますと、まず元日に神様を家で迎え入れるスタイルや、年ごとに変わる「恵方」の社寺に参拝するスタイルなどが親しまれていたものの、明治以降、国策による新年行事の開催や神社の地位向上、鉄道の発展、庶民のレジャー意識の変化などが複合的に影響し、元日に一斉に参拝する初詣文化を形づくっていったといえます。
このように見てみると、今と昔とではずいぶんと違うことに驚くのではないでしょうか。私たちは、初詣といえば、昔から連綿と続いてきた伝統と思い込んでいるところがあります。しかし意外と歴史は浅く、近代化が関わっています。
きちんと検証されたわけでもないのに、一方的に「これが正しいから」とか「これが正統だから」といった決まり文句が飛び出すことが少なくない昨今。さまざまな時代を振り返りながら、その根拠とされるものの変遷を眺めてみることも重要かもしれません。
【参考文献】
(※1)警察庁「新年の人出と年末年始の登山者に対する警察措置について」(2009)。2009年を最後に公表されず。
(※2)高木博志「近代天皇制の文化史的研究 天皇就任儀礼・年中行事・文化財」(校倉書房)
(※3)平山昇「鉄道が変えた社寺参詣 初詣は鉄道とともに生まれ育った」(交通新聞社新書)
(※4)平山昇「初詣の社会史 鉄道が生んだ娯楽とナショナリズム」(東京大学出版会)
(※5)山から人里に訪れるご先祖様なども「来訪する神」に含まれるという。「折口信夫全集」(中央公論社)
(評論家、著述家 真鍋厚)
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