【戦国武将に学ぶ】真田信之~敵方となった昌幸と信繁の命、救う~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。
真田信之(1566~1658)は、父昌幸、弟信繁(通称幸村)に比べて知名度は低いです。しかし、近世大名として真田氏が生き残ることができたのは、信之の活躍があったからです。
ちなみに、信之は、1600(慶長5)年の関ケ原の戦いのときまで、真田家の通り字だった「幸」の字を使い、信幸といっていましたが、関ケ原の戦いを機に、真田家の再出発の意味を込め、信幸を信之に改めたといわれています。この記事では、信之で記します。
戦功に代えて助命嘆願
父昌幸が徳川家康の配下となったとき、信之は家康のもとに出仕し、本多忠勝の娘小松姫と結婚しています。このとき、小松姫は家康の養女という形で嫁いできていますので、このことが、関ケ原のときの親子兄弟別離の伏線となりました。
親子兄弟別離の場面は「犬伏(いぬぶし)の別れ」として知られていますが、下野国犬伏(栃木県佐野市)での三者会談で、父昌幸・弟信繁は西軍石田三成方、信之は東軍徳川家康方につくことを表明します。信繁の正室が、石田三成の盟友といわれた大谷吉継の娘だったことも関係しています。
この後、信之は徳川軍に合流し、徳川秀忠隊に組みこまれ、中山道を通って西に向かうことになりますが、昌幸・信繁がこもる上田城(長野県上田市)を攻め始めます。信之としては、父と弟の城を攻めるわけですので、きわめてつらい立場に立たされたことになります。ただ、このとき、秀忠も、信之のそうした心情を理解したのか、第一線に立たせることはありませんでした。もしかしたら寝返りを心配したのかもしれません。
周知の通り、このとき、上田城攻めに手間取ったせいで、秀忠は関ケ原の戦いには間に合いませんでした。その関ケ原では東軍が勝利しましたので、家康は西軍についた昌幸・信繁を、石田三成や小西行長らと同じように処刑するつもりだったといわれています。
ところが、信之は自らの戦功に代えて、父と弟の助命嘆願をしました。そのため、家康も折れ、高野山への配流と決まり、九度山(くどやま、和歌山県九度山町)へ入っています。その後も、信之が父子の生活費の面倒を見、譜代の家臣を何人か九度山に送っています。
なお、信之に対しては、家康は、それまでの沼田領2万7000石に加えて、父昌幸の遺領上田3万8000石と、加増3万石を与え、合わせて9万5000石とし、信之は上田城に移っています。
上田から松代へ
1614(慶長19)年の大坂冬の陣、翌年の夏の陣に信之は出陣していません。代わりに長男の信吉と次男の信政を参陣させています。病気が理由とのことですが、弟信繁と戦うことを避けたのかもしれません。
1622(元和8)年、信之は江戸城に呼ばれ、秀忠から転封を命じられます。同じ信濃ですが、上田から松代(長野市)へ移ることになりました。石高は3万5000石の加増ですが、父祖の地上田を離れることは、つらかったと思います。
このとき、上田城本丸に入る櫓(やぐら)門の所にある鏡石の通称「真田石」を松代城に運ばせようとしましたが、どうにも動かず、そのまま残されたというのは有名な話です。その石は、今もそのまま櫓門の所にあります。
上田城から松代城に入ったとき、信之はすでに57歳でした。当時としては隠居してもおかしくない年齢ですが、どういうわけか、幕府は信之の隠居願いを聞き届けず、ようやく聞き届けられたのは、すでに4代将軍家綱のときでした。1658(万治元)年、93歳という高齢で亡くなっています。昌幸、信繁の陰に隠れた存在ですが、「真田」の家と名を守り通した生涯でした。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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