自身の「悲しみ」とどう向き合い、どう支え合うか 世田谷事件20年で書籍
子どもたちがいじめや虐待から身を守れるように、関係する法律を易しい言葉で表現してまとめた「こども六法」の著者が、社会のさまざまな問題について論じます。

あなたは「悲しい」という感情を抱いたとき、どうするでしょうか。特に、身近な人を失ったとき、あるいは敬愛していた人を突然失ったとき、誰かにその悲しみを打ち明けてみるでしょうか。日記やメモに思いの丈を書きつづってみるでしょうか。スポーツなど何らかの方法でストレスを発散するでしょうか。何もせず、自分の中に悲しみを押し込める人もいるでしょう。
その向き合い方に「正解」は存在しませんが、この記事で紹介する本は一つの「方針」を示してくれるかもしれません。
前提は「悲しんでいい」
2020年12月30日、世田谷一家殺害事件(以下、世田谷事件)から20年を迎えました。当時44歳の宮沢みきおさんと41歳の泰子さん夫妻、そして、8歳の長女にいなさんと6歳の長男、礼君が命を奪われた事件です。この事件を覚えている方もいれば、名前しか聞いたことがないという方、若い世代であれば、全く知らないという方もいらっしゃるかもしれません。
20年という「節目」もあってか、昨年は事件に関する報道も例年以上に見られました。しかし、今なお、犯人の逮捕・起訴が実現しない未解決事件からの時間経過を「節目」と表現するのは大きな違和感があるものです。
この事件の被害者遺族の一人である入江杏さんは2006年から毎年、世田谷事件のあった12月、「悲しみ」に思いをはせる「ミシュカの森」と題した集いを開催してきました。「ミシュカ」とは、犠牲となった幼いきょうだい、にいなさんと礼君がかわいがっていたクマの縫いぐるみの名前です。
そして、昨年11月、この集いで行われた講演や入江さんとのトーク、寄稿をまとめたメッセージ集として、「悲しみとともにどう生きるか」(集英社新書)という書籍が刊行されました。この集いは単なる追悼集会の枠を超え、悲しみとともに生きるさまざまな人々の支え合いの場として、そして、悲しみを抱えつつも世の中全体がよりよくなっていく方法を考える場として、確かな足跡を残してきました。そこで積み重ねられた知見の集大成が本書です。
本書でテーマとなる「悲しみ」は何も「理不尽な殺人事件で家族を失う」ような一見、私たちの多くには無関係そうな出来事によって生じる感情ではありません。家族を急病や交通事故で失った、あるいは友人が自殺したという突然の喪失はもちろん、恩師との別れやパートナーとの離別、その他、人生で誰もが幾度となく経験する「悲しみ」です。
その「悲しい」という感情との向き合い方や、そのヒントがこの本にはちりばめられています。ある意味では、世田谷事件のような報道で見聞きする「赤の他人が理不尽な死を強いられたニュース」に触れた際にあなたが抱く「なんてことだ」という怒りや悲しみも、あなたの身近な誰かが悲しみに沈んでいるときに相手を思って胸を痛めることも本書のテーマに含まれます。
ただし、本書はいわゆるビジネス書のように「悲しいときはこうすると気分が晴れるよ!」「誰かが悲しんでいるときはこうやって声をかけよう!」といったハウツーやノウハウは一切登場しません。「悲しみとともにどう生きるか」という答えのないテーマにさまざまな専門家が自身の経験や考察を述べ、試行錯誤する本です。
例えば、ノンフィクション作家の柳田邦男さんは早世した次男との思い出を語り、1歳のときに父親を亡くした小説家の平野啓一郎さんは、東日本大震災の被災者や遺族の思いを当事者ではない自分がどう書けるのか悩んだ経験を打ち明けています。
本書を読み進める時間はまるで、自分の中にしまい込んでいた「悲しさ」と向き合うような、または悲しみに暮れる人との接し方について自分自身と対話するような「経験」をもたらすものになると思います。本書を通貫する前提は「悲しんでいい」という価値観です。悲しい経験やつらい経験は誰にでも訪れるものであって、その感情を遠ざける社会は「実は、生きることを大切にしていない社会なのではないか」という疑問から本書はスタートします。
もしかしたら、あなたは「そんなのは甘えだ」と感じるかもしれませんが、実は、悲しみを表に出すことをかたくなに拒む人ほど厳しい境遇や困難に直面しているものです。「強く生きなきゃ」「悲しんでいる場合じゃない」と悲しみを認めずにいたり、周囲にも同じ態度を強いたりすることはかえって、立ち直りを阻害することがあります。
本書は、あらゆる悲しみを抱える皆さんにぜひ読んでいただきたい一冊です。それは決して、未解決の殺人事件とどう向き合うかということではなく、誰もが悲しみを経験しながら生きるこの世界で、どうやって自身の悲しみと向き合うか、または悲しみに暮れる誰もがお互いにどう支え合うのかという話なのです。
(教育研究者 山崎聡一郎)
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