次の木村花さんを生まないために 法の外で求められる倫理と意識
子どもたちが、いじめや虐待から身を守れるように、関係する法律を易しい言葉で表現してまとめた「こども六法」の著者が、社会のさまざまな問題について論じます。

女子プロレスラーの木村花さんがSNSの誹謗(ひぼう)中傷によって追い詰められ、自ら命を絶った事件の衝撃は2カ月が過ぎた今でも、色あせることがありません。7月には、俳優の春名風花さんがSNSにおける名誉毀損(きそん)を受けて投稿者を訴えた裁判で示談が成立したことが報じられ、改めて、SNSの誹謗中傷問題は話題を呼びました。
筆者が書いた「こども六法」(弘文堂)の中に「気軽に『死ね』って言ってない?」と刑法202条(自殺関与および同意殺人)を説明した部分があります。木村さんをSNSで誹謗中傷した人たちは、まさにそのような感覚だったのではないでしょうか。彼らの心には、匿名のネット世界なら何でもできるという「ゆがんだ全能感」があったのではないかと筆者は考えています。
そして、それは誰の心の中にも潜んでいるかもしれません。
「自由」の数だけ「責任」がある
SNSの誹謗中傷問題というのは今に始まった話ではなく、常にインターネットの大きな問題であり続けてきました。木村さんの自殺に始まる一連の議論から、政治の世界でも法的規制の検討が始まるなど、解決に向けた議論が進んでいます。
一方で、SNS投稿に関して特に法的な規制が加えられる場合、「表現の自由」とのバランスが問題になります。この「表現の自由とのバランス」という論点が「誹謗中傷対策を放置してきた諸悪の根源」という批判もありますが、このような批判も踏まえながら、今後、慎重な議論が進められていくでしょう。
匿名で誰にも制約されない、現実世界では考えられないほど自由な発言が許されているという点が、インターネットの大きな魅力です。一方で、この「自由さ」を守っていくために、普段から私たち一人一人のモラル、自主規制が試されていました。自由は「自分勝手」とは違います。自由の数だけ「責任」があるのです。
しかし、完全な自由が保障された世界で、責任に自覚的であり続けることは簡単なことではなく、誹謗中傷やネットリンチといった「自由の暴走」が残念ながら、何度も起きてきました。その背景に「現実世界ではできないルール違反を満喫できる」という「ゆがんだ全能感」があったのではないでしょうか。
インターネットサービスを提供する側は例えば、「死ね」のような暴力的な表現を投稿できないようにするなどの自主的な規制を行い、一方で、それらの規制をかいくぐるために、「死ね」を意味する「タヒね」のようなネットスラングが生まれてきました。暴力的な表現や誹謗中傷、嫌がらせといった行為を予防したいサービス側と、そうした行為をやめられない利用者とのいたちごっこは、現在に至るまで続いてきました。
そして今、ようやく具体的な法的規制に向けて、利用者も含めた合意が形成されつつあります。法的規制とは、最低限の規制を通じて「完全な自由による悲劇」を予防しながら、「大きな自由」を保障しようとするものです。
法的規制があるから、私たちは道端で突然殺される心配をしなくて済むし、同時に、例えば、音楽を聴きながら電車に乗るようなことが犯罪として取り締まられる心配をしなくて済みます。「やってはいけないこと」「やってもいいこと」が明確になるからです。その枠組みがいよいよ、インターネットにも適用されようとしています。
そういう意味では、インターネットの利活用は従来よりも「楽」になるでしょう。
ゆがんだ全能感に負けない
しかし、法規制で楽になることは本当に幸せなことでしょうか。法律が追い付いていない段階で、私たちができることはなかったでしょうか。
法律が追い付いていない領域はまだ存在しますし、今後も出てくるでしょう。そのような場で、ゆがんだ全能感から、「法整備が及ぶまでは好き勝手にできる」と他者を傷つけて回ることは、結果的に、その領域における自由を狭めます。そこで求められる道徳観念や倫理観は「自由を抑圧する同調圧力」として捉えられがちですが、法の及ばない自由を守る上で必要な意識です。
法の整備が追い付いていない領域でも、私たちは“次の木村花さん”を生み出してはならないのです。そして、その心掛けは結果的に、私たちがその領域において享受することができる自由を守ることにつながります。その心掛けとは「高い倫理観」という概念的なものかもしれませんし、「ローカルルール」のような共通認識かもしれません。
法の追い付いていない領域の自由を守り、自由による悲劇を生まないために、何を心掛けるのか、どんな仕組みを作っていくのか。人任せにしないで考えることは、私たち一人一人が主体的に取り組むべき課題ではないでしょうか。
(教育研究者 山崎聡一郎)
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