ベストセラー「明治維新という過ち」が決定的に過っているワケ【前編】
承久の変から明治維新までの歴史を切断
しかし、尊皇論、天皇親政論は、幕末になって突如薩長によって持ち出されたわけではありません。鎌倉幕府成立後にも、醍醐天皇(在位897~930年)、村上天皇(同946~967年)の延喜・天暦の御代は、天皇親政の模範として仰がれてきました。
王政復古を目指した後鳥羽上皇の御企図(承久の変、1221年)も、後醍醐天皇による建武の中興も、天皇親政の理想を回復したいという御志によるものです。そうした御志とその挫折の悲劇を強く意識していた日本人は、確かに存在しました。
「神皇正統記」を著した北畠親房(1293~1354年)もその一人です。親房の後には、山崎闇斎(あんさい)を祖とする崎門学派が、天皇親政の理想回復に身を投じました。彼らは徳川幕府全盛の17世紀末から、一貫して天皇親政の理想を説いてきたのです。ところが、原田さんは承久の変、建武の中興、明治維新の連続性を全く視野に置いていません。歴史の切断です。
明治維新と建武の中興・承久の悲劇の精神的連続性は、明治天皇の御沙汰に明瞭に示されています。明治2(1869)年には、後醍醐天皇の皇子・護良親王のために鎌倉宮を、宗良親王のために井伊谷宮を創建する命令が下されました。一方、明治6(1873)年には、御沙汰により、後鳥羽、土御門、順徳の3天皇の御神霊を奉迎することとなりました。
コメント