【戦国武将に学ぶ】山内一豊~「内助の功」だけで語れない国持ち大名への道~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。
山内一豊といえば、妻の千代が差し出した10両で名馬を手に入れ、それが織田信長の目に留まり、出世の糸口になったということで、一豊本人よりも「一豊の妻」の方が取り沙汰されることが多いように思われます。「妻のおかげで出世した」と思っている人がほとんどではないでしょうか。ところがどうしてどうして、一豊本人もいい仕事をしているのです。
領国経営で手腕を発揮
一豊は当時の武将の中では出自、すなわち、家柄は結構上でした。父・山内盛豊は尾張上四郡守護代・岩倉織田氏の家老だったのです。下四郡守護代・清須織田氏の家老が織田信長の父・信秀ですので、一豊と信長はいってみれば「同格」でした。
ところが、その信長によって、岩倉織田氏が滅ぼされてしまいます。一豊は若くして浪人となり、各地を転々とした後、信長に仕え、羽柴秀吉の与力に付けられました。その秀吉が1573(天正元)年、近江長浜城(滋賀県長浜市)の城主になると秀吉の家臣となり、以後、秀吉の戦いのほとんどに従軍、秀吉が大坂城を築いた後の1585年には長浜城主となっています。
そして、その5年後の1590年、秀吉による小田原攻めが終わると、一豊は遠江の掛川城(静岡県掛川市)城主となり、5万石を与えられました。その掛川城主時代の施策が注目されるのです。掛川領の東端には当時から、大井川が流れていたのですが、大井川は度々氾濫し、人々は洪水に苦しめられていました。
そこで、一豊は大井川の川道付け替え工事に着手し、人々を洪水の被害から救いました。それだけではありません。一豊は、それまで遊水池のような使われ方をしていた旧流路の低湿地を水田化したのです。この工事によって5カ所の新田が生まれ、石高を増やしたことが知られています。
小山評定の流れを決めた発言
このように、一豊は豊臣恩顧の大名の一人として、合戦や領国経営に手腕を発揮していたのですが、1600(慶長5)年の関ケ原の戦いのときには東軍・徳川家康方に付きます。それはどうしてなのでしょうか。
一豊のこのときの心情について書かれたものはなく、推測するしかありませんが、どうやら、1595(文禄4)年の「豊臣秀次事件」あたりから、秀吉と距離を置き始めたようです。一豊はかつて、秀次の宿老の一人でした。秀吉自身が秀次を一度は後継者に指名しながら、実子・秀頼が生まれると関白の地位を奪い、切腹にまで追い込んだことを複雑な思いで見ていたのでしょう。
一豊は関ケ原の戦いを前にして、家康の会津上杉攻めに従軍しています。その軍勢が下野の小山(おやま、栃木県小山市)に着いたとき、石田三成挙兵の報が家康に届くのですが、上方の情報を詳しく書いた手紙が千代から一豊に届けられました。一豊はそれをそのまま、家康に届けたといいます。家康はこの知らせを高く評価したようです。
そして、7月25日に開かれた「小山評定」での一豊の発言です。小山評定は、このまま会津攻めを続行するか、上方に戻って、石田三成と戦うかの軍議でよく知られているように、福島正則が真っ先に口を開き、「三成討つべし」と発言。その流れになりましたが、次いで口を開いたのが一豊でした。
「掛川城にある兵糧・弾薬を城ごと家康さまに献上しますので、ご自由にお使いください」と発言したのです。この発言につられ、東海道沿いに領地を持つ他の大名が皆、「われもわれも」と言い始め、軍議の流れが決まったのです。家康はこの一豊の発言を高く評価し、戦後の論功行賞で、一豊に土佐一国20万2600石を与えました。
土佐入国時、用いた謀略
そこまではよかったのですが、秀吉時代に土佐を領国としていた西軍の長宗我部盛親が改易されたので、一豊の土佐入国を阻止する動きが起きました。これを「浦戸一揆」といいます。一揆はいったん鎮圧されたのですが、不穏な動きが続いたため、一豊は「相撲大会をする」という触れ込みで人を集めるという謀略的手段を使って、浦戸一揆関係者を捕らえ、磔(はりつけ)にしたことが知られています。
掛川では領国経営に手腕を発揮した一豊でしたが、卑劣な手段を使わなければいけないほど、新しい領国の土佐は厳しい状況だったということでしょう。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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