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【戦国武将に学ぶ】織田信秀~「天才の父」だけで語れない名将、天下布武の足がかり築く~

戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

織田信秀像(愛知県愛西市)
織田信秀像(愛知県愛西市)

 織田信長が新しいアイデアで革新的な施策に取り組んだことで、よく、信長のことを「突然変異のように現われた天才」といいますが、実は父親の信秀(1511~52年)もすごかったのです。平凡な言い方ですが、「信長も親の背中を見て育った」といえます。

経済力をつけ、主家しのぐ

 その信秀は、尾張(現在の愛知県西部)守護代・織田氏の末端につながる家に生まれました。尾張の守護は斯波(しば)氏で、その守護代が織田氏でしたが、尾張の北部4郡を管轄するのが岩倉城の織田氏で、南部4郡を管轄するのが清須城の織田氏でした。信秀は、その清須織田氏の三家老(三奉行ともいう)の一人にすぎなかったのです。

 ところが、信秀は主家である清須織田氏をも凌駕(りょうが)していきました。居城・勝幡(しょばた)城(現在の愛知県愛西市と稲沢市の境)の近くには津島湊(みなと)があり、木曾川舟運の港として栄えていました。信秀は津島湊の商人たちと結び、その商業活動を掌握することによって経済力をつけ、主家をしのぐ勢力を築いたのです。

 そして、その経済力をバックに、信秀は尾張中央部への進出を果たします。その手始めとなったのが那古野(なごや)城(近世名古屋城の二の丸付近)奪取です。当時、那古野城には、駿河今川氏の古くからの分かれである今川氏が居城しており、その頃の当主・今川氏豊は、あの義元の弟でした。

 信秀は氏豊と連歌を通して親密になり、城内には信秀が泊まるための建物まで準備されていたといいます。1538(天文7)年のある日、信秀はわずかな人数で城内をかく乱し、城を奪ってしまいます。それだけではありません。さらに、那古野城の南に古渡(ふるわたり)城を築き、拠点を移して版図を拡大していきました。

 後に信長が、那古野城から清須城、小牧山城、岐阜城、安土城へとどんどん城を移していったのは、この父・信秀のやり方をまねたものといっていいかもしれません。

 古渡城の近くにあったのが熱田湊です。信秀は熱田湊を押さえることによって伊勢湾舟運を握ることに成功し、莫大(ばくだい)な富を得ています。1540年には、伊勢の豊受(とようけ)大神宮の仮殿造営費を寄進していますし、1543年には皇居の築地修理費として4000貫文を献上しています。

強敵に囲まれ、国内統一は途上に

 このように、信秀が尾張を代表する勢力になったことで新たな問題が生じてきました。近隣勢力との戦いです。駿河・遠江の今川義元が三河にまで勢力を伸ばしてきており、信秀と戦い始めています。

 また、美濃の斎藤道三も脅威で、信秀は越前の朝倉氏としめし合わせて美濃に攻め入っていますが、どちらも思うようにはいきませんでした。信秀は、1544年と1547年に美濃に攻め込んでいますが、2回とも負けています。

 今川義元との戦いも、1548年の三河小豆坂(あずきざか)の戦い、翌年の三河安城城の戦いで、やはり2回負けています。そこで、2人を敵に回すのは不利だと考えた信秀は、斎藤道三に講和を申し入れました。その結果、道三の娘濃姫(帰蝶)が信長のところに嫁いできたのです。

 このように、信秀段階では尾張国内にも敵を抱えたまま、信秀自身は1552(天文21)年3月3日に亡くなり、父のやり残した仕事を子・信長が受け継ぐことになりました。

(静岡大学名誉教授 小和田哲男)

織田信秀ゆかりの「勝幡」「岐阜」

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小和田哲男(おわだ・てつお)

静岡大学名誉教授

1944年、静岡市生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、静岡大学名誉教授、文学博士、公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史。著書に「戦国の合戦」「戦国の城」「戦国の群像」(以上、学研新書)「東海の戦国史」「戦国史を歩んだ道」「今川義元」(以上、ミネルヴァ書房)など。NHK総合「歴史秘話ヒストリア」、NHK・Eテレ「知恵泉」などに出演。NHK大河ドラマ「秀吉」「功名が辻」「天地人」「江~姫たちの戦国~」「軍師官兵衛」「おんな城主 直虎」「麒麟がくる」の時代考証を担当している。

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