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【戦国武将に学ぶ】小早川隆景~毛利家を支えた「先読みの天才」、自らの家は犠牲に~

戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

広島県三原市にある小早川隆景像
広島県三原市にある小早川隆景像

 小早川隆景は1533(天文2)年、毛利元就の三男として生まれています。幼名は徳寿丸といい、12歳のとき、1544年に安芸国竹原荘(広島県竹原市付近)を本拠とする竹原小早川氏の養子となっています。その少し後に元服して又四郎隆景と名乗りますが、この「隆」の字は周防国などの守護、大内義隆から与えられたものです。隆景は一時、大内義隆の元で人質となっていました。

大内家の滅亡を早くから予言

 人質から戻ってきたときのエピソードが伝えられています。父・元就に向かい、「大内家はいずれ滅亡するでしょう。重臣・陶隆房(すえ・たかふさ)の諫言(かんげん)を用いないばかりか、寵臣(ちょうしん)相良武任(さがら・たけとう)の言うことばかり聞いています」というのです。隆景の予言通り、1551年、隆房のクーデターによって大内義隆が殺されていますので、隆景の予知能力が実証された形です。

 その予知能力のさらなるすごさを物語るのが、1582(天正10)年の本能寺の変と、その後の羽柴秀吉による「中国大返し」に関わる出来事です。毛利家では、隆景の長兄・隆元が家督を継いでいましたが1563(永禄6)年に亡くなり、隆元の子・輝元を隆景と、次兄で吉川氏を継いだ吉川元春の2人が補佐する形を取っていました。吉川の「川」、小早川の「川」、この2本の川が毛利本家を守る形で「毛利両川(りょうせん)体制」といわれています。

 本能寺の変で織田信長が明智光秀に討たれたという第1報が、備中高松城(岡山市)の水攻めをしている秀吉の元に届いたのは6月3日夜といわれています。秀吉はすぐ毛利氏の使僧・安国寺恵瓊を呼び、信長の死を隠したまま、中断していた和平交渉を再開させ、それまでの厳しい領土割譲要求を緩め、高松城主・清水宗治の切腹で兵を引くという形でまとまりました。

 6月4日、湖状態となった高松城の堀に浮かべた舟の上で宗治は切腹しましたがその直後、毛利方も信長の死を知ります。そのとき、吉川元春は秀吉追撃を主張しましたが、隆景は「誓書を取り交わしたばかりで、その墨が乾かないうちに誓書を反故(ほご)にするのは武将の恥である」と追撃に反対し、その通りになりました。

「墨が乾かない」云々はあくまで表向きの理由で、隆景の本心は「秀吉と戦っても勝てるわけがない。信長の跡を継ぐのは秀吉だろう」という読みがあったと思われます。これは恐らく、隆景の城および領地が瀬戸内海に面したところにあり、秀吉についての情報が山陰を支配領域とする元春よりも早く、かつ大量に入っていたからなのでしょう。隆景のすごいところは、そうした情報収集と先読みにあったと思われます。

秀吉の養子をもらい受けたが…

 ところが、その先読み能力が、結果論ですがマイナスになったという側面もありました。養子・秀秋に関する件です。秀吉に実子・秀頼が生まれたとき、それまで秀吉の養子だった秀秋を「毛利輝元の養子に」という動きがありました。そのとき、隆景が「秀秋を私の養子に」と引き取って、毛利本家に秀吉の息のかかった人物が入るのを阻止するということがありました。

 隆景の働きによって毛利本家は安泰を保ちましたが、隆景没後、秀秋のときに小早川家は滅亡してしまいました。あまり先が読めると、自家にとっての不幸を招くこともある、という例になるかもしれません。

(静岡大学名誉教授 小和田哲男)

【写真】小早川隆景ゆかりの「三原」「備中高松」

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小和田哲男(おわだ・てつお)

静岡大学名誉教授

1944年、静岡市生まれ。早稲田大学大学院文学研究科博士課程修了。現在、静岡大学名誉教授、文学博士、公益財団法人日本城郭協会理事長。専門は日本中世史、特に戦国時代史。著書に「戦国の合戦」「戦国の城」「戦国の群像」(以上、学研新書)「東海の戦国史」「戦国史を歩んだ道」「今川義元」(以上、ミネルヴァ書房)など。NHK総合「歴史秘話ヒストリア」、NHK・Eテレ「知恵泉」などに出演。NHK大河ドラマ「秀吉」「功名が辻」「天地人」「江~姫たちの戦国~」「軍師官兵衛」「おんな城主 直虎」の時代考証を担当している。

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