【戦国武将に学ぶ】藤堂高虎~一度は武士をやめた苦労人の「転職人生」~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

江戸時代の武士道徳「武士は二君(じくん)にまみえず」という言葉からすると、何度も主君を変えている藤堂高虎(1556~1630年)の生き方は、異例です。まずは、ざっとその「転職人生」を追ってみましょう。
1576年、秀吉の弟・秀長の家臣に
はじめは、父・虎高が仕えていた浅井長政に高虎も仕えますが、その浅井家が1573(天正元)年に滅ぼされ、浅井長政の元家臣だった阿閉(あつじ)政家、次いで、同じく長政の家臣だった磯野員昌(かずまさ)に仕えます。その頃の禄高(ろくだか)は80石といわれています。その後、織田信長のおいにあたる信澄に仕えるなど、次々に主君を変え、ようやく1576年、羽柴秀吉の弟・秀長に仕え、そこで3000石を与えられています。
秀吉が、中国方面軍司令官となっていったため、秀長も播磨、但馬平定で戦功を挙げ、高虎は信長死後の賤ケ岳(しずがたけ)の戦い、小牧・長久手の戦いに加わりました。1585年には1万石を与えられ、さらに2年後の九州攻めの論功行賞で2万石となっています。
秀長が1591年に病死した後、秀長の養子・秀保(ひでやす)にそのまま仕え、若い秀保を支える重臣の一人となりました。ところが、1594(文禄3)年、秀保が大和十津川で急死するというアクシデントに見舞われます。自分が支えてきた秀保の急死がよほどショックだったのでしょう。高虎は武士をやめ、高野山に登って、剃髪(ていはつ)してしまいました。
高虎をそのまま出家させてしまうのは惜しいと考えたのが、秀吉です。高虎を説得し、改めて自分の家臣に迎え、しかも、5万石加増して7万石の大名として伊予板島(宇和島)城主にしています。
こうした経歴から明らかなように、高虎は豊臣恩顧の大名の一人でした。いかにも苦労人らしく、高虎の残した家訓「高山公(こうざんこう)御遺訓」では、人を思いやることの必要性を説いており、「人を大小によらず見下すべからず」ということも言っています。ほかのところでは、「主人に胡麻(ごま)を擂(す)るような者を優遇すれば、まじめな家臣は嫌気がさして、暇を取ってしまう」ということを言っています。
「風見鶏」的生き方に批判も…
しかし、豊臣恩顧の大名だったにもかかわらず、1600(慶長5)年の関ケ原の戦いで東軍・徳川家康方につき、最終的には伊勢(三重県)の津で32万3900石を与えられました。80石からの大出世ということになりますが、江戸時代の人は高虎のことを「腰が軽い」「風見鶏」などと評しています。
そうした世評を高虎自身がどう受け止めていたかは分かりませんが、秀吉死後、「次の時代は家康だ」と思って家康に急接近していった変わり身の早さは、何人も主人を変える中で身に付けた高虎流の処世術だったのかもしれません。この場合、悪評の「風見鶏」的生き方は、マイナス点というより、戦国の余風といった方がよいように思います。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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