【戦国武将に学ぶ】石川数正~家康の重臣から出奔、秀吉の下で大名に~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。
現在、「国宝五天守」の一つとなっている松本城(長野県松本市)の天守は、石川数正とその子康長の2代がかりで築かれました。外観が黒く、まさに秀吉好みの黒い城ですので、いかにも豊臣大名としての石川数正という印象を受けます。しかし、石川数正は根っからの豊臣大名だったわけではありません。
家康の側近務める
石川氏は、三河の松平氏、後の徳川氏の譜代家臣である家柄で、しかも重臣でした。数正の祖父清兼は、松平広忠に仕え、広忠の嫡男竹千代、すなわち、後の徳川家康が誕生したときには、「蟇目(ひきめ)の役」という大事な役を務めています。これは、家康の母、於大の方の出産にあたり、妖魔降伏(ようまごうぶく=妖怪や魔物を降伏させること)のために弓の弦を鳴らすというものです。
その清兼の子家成が、酒井忠次と並ぶ「両家老」の一人として、西三河の旗頭となっています。この石川家成の兄康正の子として生まれたのが数正です。ただ、生年ははっきりしていません。1542(天文11)年生まれの家康よりも、やや年長だったといわれています。家康が今川義元の「人質」として駿府に赴いたとき、鳥居元忠らと共に従っています。
数正の活躍ぶりが文献で確認される最初は、1562(永禄5)年の三河上郷(かみのごう)城攻めの後です。桶狭間の戦い後、家康は今川氏真からの自立を図りますが、正室の築山殿、長男竹千代(後の信康)、長女亀姫の3人が、今川方の人質として取られていました。そこで家康は上郷城を攻め、今川氏真のいとこにあたる鵜殿氏長と氏次を生け捕りにし、人質交換を申し出ます。
そのとき、氏長・氏次兄弟を連行して駿府に乗り込み、築山殿と2人の子を取り戻したのが数正だったのです。
その後、家康は三河一国の平定に成功し、東三河の旗頭を酒井忠次、西三河の旗頭を石川家成とします。家康の領土が遠江にまで広がったときには、家康は家成を遠江の掛川城主とし、その代わりに、家成のおいにあたる若い数正を西三河の旗頭に抜てき。数正は岡崎城を守ることになりました。数正はその頃から、受領名伯耆守を称しています。
1579(天正7)年の築山殿事件で岡崎城主だった松平信康が自害させられた後、数正が岡崎城代となり、3年後の本能寺の変と、それに続く甲斐・信濃侵攻では、家康に従軍するとともに、家康の副状(そえじょう)を発給するなど、側近としての役割も果たしています。
秀吉の「ヘッドハンティング」
織田信長生存中、信長との交渉役は酒井忠次でしたが、信長死後、台頭してきた秀吉との交渉役は、どういうわけか忠次ではなく、数正に交代します。
1583(天正11)年の賤ケ岳の戦い後、家康からの戦勝祝いの使者として、有名な名物茶器「初花肩衝(はつはなかたつき)」を、秀吉の所へ持参したのも数正です。その後も、何度か秀吉の所に使者として赴くうちに、秀吉の人間的魅力に取りつかれてしまったようです。
決定的だったのは、その翌年の小牧・長久手の戦いです。このとき、数正は秀吉との和議を家康に進言しましたが、家康の機嫌を損ねたばかりか、徹底抗戦を主張する他の重臣たちとの間に、あつれきも生まれました。
そのようなとき、秀吉から数正に誘いの手が伸びてきたのです。秀吉得意の「ヘッドハンティング」というわけで、1585(天正13)年11月13日、数正は岡崎城を出奔し、秀吉の下に走っています。はじめ、和泉で所領を与えられ、1590(天正18)年、信濃松本8万石を与えられ、松本城を築いています。
後に、徳川の世になったので、このときの数正の行動を軽率と見る向きもあります。しかし、家康も数正の出奔の少し後、秀吉に臣従していますので、家康より数正の方が先を見る目があったといえるのではないでしょうか。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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