【戦国武将に学ぶ】豊臣秀頼~天下人の子、出陣せぬまま大坂城に散る~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。
豊臣秀頼は、秀吉の次男として1593(文禄2)年8月3日、大坂城で生まれています。母は秀吉の側室淀殿です。秀吉は正室お禰(ね)との間では子宝に恵まれず、側室淀殿が長男鶴松を産んでいましたが、わずか3歳で早世しています。その後に生まれたのが秀頼でした。
なお、正室との間に子どもがなく、また、何人もいた側室の中で子どもを産んだのが淀殿だけだったということもあり、すでに秀吉生存中から、「鶴松も秀頼も秀吉の実子ではなく、淀殿が他の男との間にもうけた子では?」といううわさがありました。その相手というのが石田三成だったり、大野治長だったり、最近では陰陽師という説も出されたりしていますが、どれも確実ではありません。
関ケ原後、一大名に転落
当時、「捨て子は育つ」という俗信がありましたので、長男は「棄(すて)(捨)」、次男は「拾(ひろい)」と名付けられました。その長男の「棄」、すなわち鶴松が亡くなったとき、秀吉は、「もう子どもはできないだろう」と考え、おいにあたる秀次を養子に迎え、関白職も譲っています。1591(天正19)年12月のことです。関白を退いたあと、太閤と呼ばれたのは周知の通りです。
ところが、次男「拾」が生まれたことで、秀吉は、おいの秀次ではなく、実子に豊臣家を継がせたいと考えるようになり、とうとう秀次を高野山に追い、自刃させています。そして、1596(慶長元)年うるう7月、まだ4歳だった「拾」を元服させて秀頼とし、しかも、従四位下(じゅしいのげ)・左近衛少将にも叙任させているのです。普通、元服は15歳くらいですので、秀吉がいかに、秀頼を後継者として世間に認知させるか、焦っていた様子が読み取れます。
そして、その2年後、秀頼が6歳になった1598年8月18日、秀吉が亡くなりました。亡くなる直前、五大老の徳川家康らに「秀より事なりたち候やうに、此かきつけ候しゆとして、たのミ申候」との遺言状(「毛利家文書」より)をしたためています。
五奉行の一人石田三成は、秀吉の遺言通り、秀頼への豊臣家世襲路線をとろうとしましたが、「天下は力ある者のまわりもち」と考える家康との間で、1600年9月15日の関ケ原の戦いが勃発します。
関ケ原の戦いは、徳川対豊臣の戦いではありません。家康対反家康の戦いといっていいでしょう。秀頼は反家康にくみしてはいませんので、戦後、大坂城の城主としてはそのままでしたが、豊臣家としての直轄地は大幅に減らされ、摂津・河内・和泉の一大名に転落しています。
諸大名、誰一人入城せず
3年後の1603(慶長8)年、家康は征夷大将軍に就任しますが、秀頼およびその母淀殿は、「秀頼が成人した暁には、再び関白になり、豊臣政権が復活する」と考えていました。家康が秀吉の遺命を守り、孫の千姫を秀頼のもとに嫁がせていましたので、安心していたのかもしれません。
家康が秀頼との戦い、すなわち大坂攻めをいつから考え始めたのか、書かれたものはありませんが、おそらく1611年の「二条城会見」のときではないかと思われます。立派な青年に成長した秀頼を見て、「自分が死んだら、わが子秀忠ではなく、諸大名が再び秀頼のもとに集まるのではないか」と危惧したのではないでしょうか。
結局、1614(慶長19)年、「方広寺鐘銘事件」によって家康から挑発された形の秀頼が、大坂城に諸大名の招集をかけたわけですが、諸大名の誰一人として入城することはなく、浪人たちを集めて戦うことになりました。大坂冬の陣、そして、翌年の夏の陣で敗れ、最期は大坂城で母淀殿とともに自刃してしまいます。
実際に戦いに出たことはありませんので、秀吉の子でありながら、どの程度の能力があったのかは分からずじまいです。秀吉が一代で築いた豊臣家の天下は、秀頼の死で完全に終わることとなりました。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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