【戦国武将に学ぶ】真田昌幸~徳川家の大軍防ぎ切った2度の上田合戦~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。
真田昌幸は、信濃国衆真田幸綱(幸隆とも)の三男として1547(天文16)年に生まれています。子どもの頃、武田信玄の所に人質として送り込まれますが、信玄に気に入られ、武田家家臣の武藤氏の名跡を継ぐことを命ぜられ、武藤喜兵衛尉と名乗りました。
ところが、1575(天正3)年の長篠・設楽原の戦いで、2人の兄、信綱と昌輝が討ち死にしたため、真田家を継ぐことになります。
主君次々に変え、真田家存続図る
家督を継いだ後は、武田勝頼の重臣として、上野の岩櫃(いわびつ)城(群馬県東吾妻町)と沼田城(同県沼田市)の守備についています。1582年の武田氏滅亡のとき、昌幸が勝頼を岩櫃城に迎え入れようとしたことは、よく知られています。
武田氏滅亡後の昌幸は、目まぐるしく主君を変えています。はじめ、北条氏直に従い、次に徳川家康に従い、このとき、家康の援助で上田城(長野県上田市)を築きました。その家康から、沼田領を北条に引き渡すよう命じられたのを機に、今度は上杉景勝に属しています。怒った家康が、家臣の鳥居元忠、大久保忠世、平岩親吉らに上田城を攻めさせており、これを第1次上田合戦といっています。兵力差が大きかったのですが、昌幸は徳川軍の攻撃を防ぎ切りました。
その後、昌幸は何と、豊臣秀吉に臣従しています。こうした変わり身の早さから、昌幸は「戦国の一匹おおかみ」などといわれることもあります。ただ、この後、家康が秀吉に臣従することになり、昌幸は家康の与力大名とされました。
このように、仕えてすぐ裏切るのは、近世的武士道徳の「武士は二君にまみえず」といった観念からすれば、「節操がない」と非難の対象となりますが、戦国時代にあっては、いかに家を存続させるかが大命題だったわけで、ある意味、当然の行為でもあったと思われます。しかし、あまりの変わり身の早さに、豊臣秀吉も、上杉景勝宛ての書状の中で、昌幸のことを「表裏比興(ひょうりひきょう)の者」と表現しているくらいです。
秀忠の大軍足止め、関ケ原に向かわせず
その秀吉も亡くなって1600(慶長5)年の関ケ原の戦いのとき、昌幸はもう一度大きな仕事をしています。それが第2次上田合戦です。
家康が豊臣大名を率いて会津上杉攻めに向かったとき、昌幸も、2人の子、長男信幸(のち信之)と次男信繁(通称幸村)を連れて出陣。家康の軍勢に合流しようと下野の犬伏(栃木県佐野市)まで進んだとき、石田三成からの密書が届きました。家康との戦いで、味方になるよう求める内容でした。
そこで昌幸、信幸、信繁の3者会談となったわけですが、長男信幸の正室は、家康の重臣本多忠勝の娘でした。それに対し、信繁の正室は、三成の盟友大谷吉継の娘だったのです。結局、3者会談の結果、昌幸と信繁は三成に味方することになり、信幸は家康陣営に残るという形で、親子兄弟が別れることを決め、昌幸と信繁はそのまま上田城に戻りました。
三成の挙兵を知った家康は、下野の小山(おやま)=栃木県小山市=で軍議を開いています。有名な小山評定(ひょうじょう)です。そこで、上杉攻めを中止し、上方に戻ることを決めたのですが、家康は、徳川軍主力3万8000の大軍を子の秀忠につけ、中山(なかせん)道経由で上方に向かわせました。
上田城は中山道から外れていますので、そのまま素通りすることもできたのですが、簡単に落とせると思ったのか、秀忠は城攻めを始めます。しかし、攻め落とすことができず、この城攻めのロスが響き、秀忠は関ケ原遅参という大失態を演じる結果となりました。
家康は、昌幸と信繁を死罪にするつもりだったといいます。しかし、信幸とそのしゅうと本多忠勝の助命嘆願によって、九度山(和歌山県九度山町)への流罪となりました。昌幸は1611年、九度山で死去。徳川家との最後の戦いは、信繁に託されることになりました。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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