【戦国武将に学ぶ】荒木村重~信長に反旗も城脱出…「逃亡」はぬれぎぬか〜
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。
普通、守護は一国に1人で、まれに2人という国もありますが、戦国時代の摂津には何と、3人の守護が並び立っていました。池田勝正、和田惟政、伊丹親興(忠親)で、その池田勝正の家臣だったのが荒木村重です。
謎多き謀反
村重は1535(天文4)年の生まれで、1568(永禄11)年まではこれといった活躍はみられません。ところがこの年、織田信長が足利義昭を擁して上洛(じょうらく)したことから、世に出るようになります。
このとき、池田家では内紛が起こり、主君・勝正が出奔し、家督は弟・重成が継いだのですが、この混乱のどさくさに紛れて、村重が実権を握り、さらに和田惟政との戦いに勝ち、伊丹親興との戦いにも勝って、伊丹氏の居城だった伊丹城に入るとともに、有岡城(兵庫県伊丹市)と名を改めたのです。
これらは織田信長の支援を得てのことでしたが、それまでの3人守護体制は村重一人による支配体制となり、これを「一職支配」と呼んでいます。この頃には、村重は織田軍の一員として、越前一向一揆との戦いなどにも動員されていますし、羽柴秀吉が播磨に乗り込み、「中国方面軍司令官」として活躍し始める前は、村重が播磨、さらには備前の武将たちと接触していたことが知られています。
その頃、織田軍の摂津における戦いのメインは大坂本願寺との戦いでした。本願寺攻めの主将は佐久間信盛でしたが、摂津の一職支配者としての村重も重責を担っていたことはいうまでもありません。ところが、その村重が1578(天正6)年10月、突然、信長に対し謀反を起こします。信長は最初、信じることができず、実否糾明のため、松井友閑、明智光秀、万見(まんみ)重元を村重のもとに派遣しているほどです。
これについて、一説には、村重本人は直接、信長に会って弁明するつもりだったのに、家臣たちが「信長は一度疑ったら許さないだろう」と口々に叫んだため、弁明の機会をつくることができなかったといいます。また、なぜ謀反に及んだのかも、さまざまに取り沙汰されています。よく知られているのは、村重の足軽が兵糧を本願寺側にこっそり売っていたのが露見したというものです。
そのほか、これらも「一説には」という限定付きですが、それまで、播磨の武将たちを手なずけるために努力してきたのに、その役を秀吉に奪われたことを恨んだためとも、信長の残虐性を嫌い、毛利氏についた方が人心の安泰につながると考えたためともいわれています。
では、実際のところはどうなのでしょうか。同じ頃、播磨三木城の別所長治も反旗を翻していますので、長治と同様、信長にそのままついていくか、毛利輝元に属すかで迷い、毛利氏につく方を選択したというのが真相と思われます。
織田軍の猛攻に耐えるも…
結局、その年の11月10日から、織田軍による有岡城攻めが始まります。このとき、黒田官兵衛が説得のために城内に入ったところ、取り込められたことがよく知られています。有岡城は城下町まで、「総構え」という造りで囲んだ城で、織田軍も攻めあぐねて長期戦になりました。
そして、翌1579年9月2日、村重は何と、5、6人の供のみを連れ、夜陰に紛れて有岡城を脱出し、もう一つの居城である尼崎城に移ったのです。この後、城主のいなくなった有岡城は織田軍の猛攻を受けて開城し、妻子・家臣が惨殺されてしまいます。そのため、村重は「1人生き残るため、妻子・家臣を見捨てたひきょうな武将」とレッテルを貼られることになりました。
では、本当に「ひきょうな最低の武将」だったのでしょうか。筆者は「敵前逃亡」はぬれぎぬであり、村重自らが毛利氏の援軍を要請するための行動だったとみています。村重をひきょう者に描くのは、信長側の宣伝に乗せられているように思えて仕方ありません。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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