【戦国武将に学ぶ】毛利輝元~関ケ原へ向かわずに敗れた西軍総大将~
戦国武将たちの生き方から、現代人が学ぶべき点、反面教師にすべき点を、戦国時代史研究の第一人者である筆者が解説します。

毛利輝元は1553(天文22)年、毛利隆元の長男として生まれています。隆元の父は中国地方で一大勢力を築いた毛利元就で、輝元は元就の嫡孫にあたります。父・隆元が1563(永禄6)年に急死したため、わずか11歳で家督を相続し、祖父・元就の後見を受けて成長しました。
補佐役に恵まれ112万石の大大名に
1571(元亀2)年に元就が没した後は2人の叔父、すなわち、吉川元春と小早川隆景の補佐を受けます。吉川の「川」、小早川の「川」、この2本の「川」が毛利本家を守る形となりましたので、これを「毛利両川体制」などと呼んでいます。実際、輝元はこの2人の叔父のおかげで、元就の全盛期以上に版図を広げていきました。
中国地方で順調に勢力を伸ばしていた輝元の前に対抗勢力が現れました。織田信長です。輝元が備前・美作の宇喜多直家を味方につけ、播磨まで侵攻し始めたところで、東から、信長の力が伸びてきて衝突することになりました。信長軍の「中国方面軍司令官」が羽柴秀吉で、この後、秀吉との戦いが繰り広げられます。
当初、輝元は播磨三木城の別所長治や摂津有岡城の荒木村重を織田方から寝返らせ、また、大坂本願寺とも結んで信長を苦しめました。ところが、宇喜多直家が信長方に寝返った頃から、守勢に転じます。1582(天正10)年、備中高松城の清水宗治を秀吉軍が攻め、輝元も2人の叔父とともに救援に向かいますが、その最中、本能寺の変が起こり、秀吉からの申し出で講和交渉が行われ、城主・清水宗治を自害させる代わりに城兵の命は助けるという条件で開城に踏み切りました。
この後、輝元は秀吉に属し、秀吉の四国攻め、九州攻めにも従軍し、豊臣大名の一員となります。1589年に秀吉の意向を受けて、居城を安芸の郡山城から広島城に移し、1591年には中国筋9カ国112万石を与えられる大大名となりました。
秀吉の力量を認めたという点では先見の明があったといえますが、どうも、秀吉びいきの小早川隆景や安国寺恵瓊(あんこくじ・えけい)に引きずられたとの印象も否めません。自己主張があまり見られないのです。若い頃は祖父・元就の補佐、元就没後も2人の叔父の補佐を受けてきたことが影響していたのかもしれません。
リーダーシップ発揮せず
輝元は豊臣政権下では、五大老の一人として重きをなしますが、秀吉死後、急速に台頭してきた徳川家康とは距離を置いています。その結果、1600(慶長5)年の関ケ原の戦いでは「反家康」の思いから、石田三成、安国寺恵瓊らの要請を受け、西軍の総大将を引き受けています。
要請されたとき、輝元は広島城にいたのですが、7月15日、広島を出発し、19日には大坂城の西の丸に入っています。この件について、通説では「輝元は安国寺恵瓊の策略に乗せられただけで、輝元に家康と戦う意思はなかった」とされていますが、最近は、輝元が戦う意思がなかったように装わないと「幕藩体制下で毛利氏が不利になるため、全面的に恵瓊に責任を押し付けたアリバイ工作ではなかったか」(渡辺大門「山陰・山陽の戦国史」)とする声も上がっています。
このあたり、輝元がどこまで本気で家康と戦う気があったのかは分かりません。石田三成からの再三の催促にもかかわらず、輝元は関ケ原に出ることなく、大坂城にとどまったままでした。東軍総大将の家康が関ケ原で指揮を執ったのとは対照的に、決戦の地に向かうことすらなく、終戦を迎えたのです。
しかも、吉川元春の子・広家が輝元とは関係なく、家康方と交渉して、関ケ原で兵を動かさないという判断をして、西軍敗北の一因となっていますので、毛利家当主としてのリーダーシップも発揮していなかったことになります。輝元は西軍敗北の責任を取らされる形で7カ国を没収され、周防・長門2カ国36万9000石に減封されてしまいました。毛利家は幕末まで、雌伏の時を過ごすこととなります。
(静岡大学名誉教授 小和田哲男)
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