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シン・エヴァ劇場版鑑賞、なぜ「爽快感」「置いてきぼり感」に二極化するのか

アニメ映画「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」がヒットしています。従来のファンからは絶賛の声が相次ぐ中、一部には否定的な意見もあるようです。その理由を社会学的な観点から探ります。

「実物大コックピット」のある新幹線まで登場したエヴァンゲリオン(2015年10月、時事)
「実物大コックピット」のある新幹線まで登場したエヴァンゲリオン(2015年10月、時事)

 アニメ映画「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」が3月8日に公開、ヒットを続けています。配給元の東映などは、公開1週間の興行収入が33億円を突破したと発表しました。

 もともと、1995年から1996年にかけてテレビアニメとして放映された「エヴァンゲリオン」ですが、1997年には通称「旧劇場版」、2007年から2012年にかけては通称「新劇場版」3作品がそれぞれ映画館で公開され、そのたびに作品の内容を巡って賛否両論が噴出しました。しかし、「新劇場版」の完結編に当たる今作はどうも、いつもと様子が違っているようです。なぜなら、テレビ版からリアルタイムで見てきた昔からのファンがこぞって大絶賛しているからです。

 筆者が主な識者のコメントをざっと確かめてみましたが、狂喜と言っても過言ではない褒め方が大半です。もちろん、賛否の「否」に該当しそうな論評がないわけではありませんが、メインストリームからははじかれてしまっているようなのです。これは一体どういうことでしょうか。

きついものと映った「まともさ」

 まず、賛否の「否」と思われるものとして目に付いたのは「シン・エヴァが旧エヴァ(1990年代の作品)と比較して、物語としての衝撃性や意外性があまりない」「キャラクターの変化がご都合主義的で、終わらせ方として強引ではないか」といったものでした。

 それ以外にもいろいろと細かい指摘がありましたが、とりわけ興味深かったのは作品そのものへの論評とは異なる「心情の吐露」でした。「シン・エヴァを鑑賞して感動したけれども、恋人をつくれ、現実に戻って幸せをつかめと言われても、もう手遅れなんだが……」といった反応でした。これは、絶望から希望へと転換する全体的な物語の流れにおいて、「パートナーありきの人生像」が端々に刻印されていると受け取られたからだと思われます。

 また、映画の中で、人々が相互扶助で生活を営む姿がユートピアのように描かれていた場面への違和感を表明するものも少なからずありました。家族だんらんや田植えのシーンに象徴される「まともな生活」、もっといえば、夫婦になって子どもをつくり、誇りとする仕事があるといった大人像がやや、ステレオタイプの推奨に感じられたのかもしれません。

 要するに、ストーリーの完結のさせ方や伏線回収といった次元の話ではなく、作中でそれとなく描写される「まともさ」とされるものの提示がロスジェネ世代(バブル崩壊後の就職氷河期に遭遇した世代)を中心とするファンの間で、きついものに映ったと考えられます。

 旧エヴァ以後の時代、低成長経済と中間層の崩壊に拍車が掛かり、恋人や家族を持てること自体が高価なぜいたく品のようになりました。そうしたことも含め、将来に対して希望を持ちづらい人々が拡大していったことが作品の見方に関係していると思われます。

「失われた20年」(バブル崩壊後、20年以上にわたって経済の停滞が続いたこと)により、ファンの間での格差が想像以上に開いていったのかもしれません。1990年代のエヴァブームのときに話題となった「現実に帰れ」というメッセージは当時、エヴァに夢中になっていた若者にとっては有効でしたが、2020年代を迎えて今もなお、「失われた20年」の後遺症にあえいでいる壮年前後の人々にとってはむしろ、「非現実的な励ましの声」に聞こえてもおかしくはないからです。

文化資本としての「感情資本」

 すでにちまたに作品の批評があふれ始めていることから、ここでは作品の批評をいったん横に置き、社会の実相を照らし出す触媒としての面から論じてみたいと思います。

 仮に先述の「恋人をつくれ、現実に戻って幸せをつかめ」というメッセージが真だとしましょう(これは「恋人をつくれ」だけでなく、「友人をつくれ」にも当てはまる)。そのためには、当然ですが確固たるリソースが必要となってきます。つまり、最低限、周囲の仲間や社会のことを考えられる余裕がある感情の持ち主でなくてはならないからです。

 例えば、「くよくよしないで勇気を出して」という決まり文句をよく聞きますが、「勇気を出す」には「優しく背中を押してくれる、自分のことを心配してくれる誰かがいる」といった「寄り添ってくれる他者の存在」が含意されています。加えて、「その人がどのような境遇を経てきたのか」「現在どのようなポジションにいるか」という要素にもかなり左右されます。このような感情の働きを「感情資本」として捉える見方があります。ここでいう「感情資本」とは次のようなことを意味します。

 感情資本とは、文化資本のひとつである身体的資本として、感情管理の特定のスタイルを「自然に」身につけた人間が、より有利な社会的位置を「個人的に」獲得するかにみえるような事態を招くものである。それはある階層独特の資本としてあり、そのため、その階層の再生産に役立つことになる(「希望の社会学 我々は何者か、我々はどこへ行くのか」山岸健・浜日出夫・草柳千早編、三和書籍)。

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真鍋厚(まなべ・あつし)

評論家・著述家

1979年、奈良県生まれ。大阪芸術大学大学院修士課程修了。出版社に勤める傍ら評論活動を展開。著書に「テロリスト・ワールド」(現代書館)、「不寛容という不安」(彩流社)、「山本太郎とN国党 SNSが変える民主主義」(光文社新書)。

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